連日、朝日ホール(有楽町マリオン11F席数679)が、ほぼ埋まる盛況でした。14作品の上映と来日してくださった監督や俳優のみなさんの舞台挨拶及びQ&A、すべてに参加した私マルコは会場を出た後もイタリアにいるかのようでした・・まさに、格安イタリア旅行(^^♪

作品紹介(ポスターから)、チネチッタの現代イタリア映画プロモーション部長、カルラ・カッターニさんの各作品についてのメッセージを『』で紹介します。作品のテーマを端的に伝えています。現在、日本での一般公開が決定しているのは3作品だけですが、今後も増えていくことを願っています。※掲載順(作品・Q&A)は時系列です。挨拶・Q&Aで話されたイタリア語は同時通訳の方々によって語り手の細やかなニュアンスまで含めて、聞き手に伝わりやすい言葉に置き換えていただき、映画への理解がより深まりました、感謝の気持ちでいっぱいです。2024イタリア映画祭が今から楽しみ!!


イタリア映画祭2023へのメッセージ

『万華鏡のような多様性をもつ今回の上映作品は、いずれも時代の多面的な縮図を提供します。そこではあらゆるストーリー、すべてのシークエンス

と登場人物たちが居場所を見つけ、最新のイタリア映画の全体像を力強く描き出します。』(チネチッタ)

『今回上映される14作品はイタリアの北から南まで、また大都会や地方など、さまざまな地が舞台となっています。また作品に描かれているテーマも

若者や障害のある人、マイノリティが抱える問題や、環境問題、イタリアの現代社会についてなど多岐にわたり、イタリアと日本の観客の皆様の

文化的対話を深める機会ともなるでしょう。』(イタリア文化会館-館長 シルヴァーナ・デマイオ)


『聖キアラは教会史上初となる女子修道会の認可を獲得するために闘います。初期の女性運動の1つとして語られます。』上映前にスザンナ・ニッキャレッリ監督からのメッセージが流れました。「中世の趣が残る中部イタリアの自然や聖堂など、たっぷりとお見せします。時は13世紀初頭、アッシジのフランチェスコと一緒に清貧生活をおくったキアラの物語です。人はコミュニケーションによって精神性を高めることができる・・ことを描きました。日本の皆様はイタリア映画をよく理解して下さっていると聞きました。宗教、信仰の有無など関わりなく見ていただける作品です。」

盲目となったフランチェスコを慰める、男性の暴力から女性を救う奇跡を行う、など、今まで脇役的存在だったキアラが大活躍。キアラが因習にとらわれる枢機卿や教皇(ローマ・カトリック教会は男性中心の世界)に挑んでいく姿は中世版フェミニズム運動と言えるかも知れません。時おり挿入される修道女たちの合唱が聖フランシスコを音楽映画的に描いた『ブラザー・サン・シスター・ムーン』(1972監督フランコ・ゼフィレッリ)を、キアラとフランチェスコがともに送る清貧生活が『フランチェスコ』(1989監督リリアーナ・カヴァーニ)を懐かしく思い出させてくれました。終幕近く、手のひらサイズのパンが50人分になっていくシーン、あれは奇跡か目の錯覚か?上手に撮ってありました


『サンドロ・ヴェロネーゼのベストセラー”はちどり”を原作として、豪華キャストが終結しました。空中で静止しているために羽を動かし続けるハチドリのような男の四世代にわたる一家を描きます。彼は大きな愛情には恵まれないが愛を類まれな優しさ、慈しみへと変換します。』  医師マルコが人生で出会った二人の女性ルイーザとマリーナとの恋、マルコの家族(両親・兄・妹)の物語が時間軸を頻繁に変えながら展開します。過去と現在が行き来する映画は数多くありますが、この作品は群を抜いています。「未来人」という漢字がエピソードに出て来るあたり、原作者は日本文化にミスティックなものを感じているようです。老境に至ったマルコが安楽死を選択する場面でこの作品のテーマがクローズアップされた感がありました。ナンニ・モレッティが精神科医役で出演しています。彼は自身が監督・主演をつとめた『息子の部屋』(2001カンヌ・パルムドール受賞)でも精神科医役でしたね。


上映後Q&A プロデューサー:ドメニコ・プロカッチさん マリーナ役:カシャ・スムトニャクさん


開会式



『イタリア文学の最高峰ルイジ・ピランデッロの生の断片と死を物語り、空想し、その真実を明らかにする、短くも緻密な作品です。

ピランデッロは20世紀前半において、1936年のノーベル文学賞にふさわしい国際的評価を獲得した唯一のイタリア人作家です。

映画祭の幕を立ち上げる最大の注目作でしょう。』

ピランデッロの名は知らなくとも映画『カオス・シチリア物語』(1984 監督タヴィアーニ兄弟)をご覧になったイタリア映画ファンは多いはず。原作はシチリアを舞台とした短編集で真実主義文学の代表作の1つです。予定されていたパオロ・タヴィアーニさん(1931年ピサ生まれ)のオンラインQ&Aがご体調不良で中止になりました。ご回復をお祈りします。アグリジェント市役所の代理人ファブリツィオが、ピランデッロの遺灰を本人にとって不本意だったに違いないローマから故郷シチリアに運んでほしい、という遺志を実行する。ファブリツィオ=ピランデッロ(遺灰)が戦後間もないイタリアを旅する、車窓からの眺め、多様な乗客たちとの出会いなど、白黒の画面でノスタルジックに描かれています。ピランデッロが死の20日前に書き上げた短編『釘』が最後を締めくくります。画面がカラーになることもあって、移民をテーマにしたこの短編から強烈な印象を受けました。『カオス・シチリア物語』『グッドモーニング・バビロン』『父パードレ・パドローネ』のタヴィアーニ健在が嬉しい。これからも創作活動を続けて欲しい、すべてのイタリア映画ファンの願いです。


監督ジャンフランコ・ロージさんによる上映前の作品紹介

”少し特殊な映画で,私が撮ったものではなくアーカイブの編集(3回同行したものもあります)でつくられています。教皇の視線を通して世界の地図をつくりたかったのです。バチカンの大きな壁の外に出て世界各地、今私たちが抱えている問題が色濃く表れている街角に教皇が人々のもとに向かいます。巡礼の旅の逆バージョンと言えるでしょう。私がしゃべり続けて映画を想像してもらうのもありかもしれませんが(笑)、80分間の教皇の旅、お楽しみ下さい。”

『旅人としての教皇の姿を追うドキュメンタリーで文字通り教皇フランチェスコの行程をたどります。彼の旅はカトリック教会による迫害を受けたカナダの先住民のように、過去に苦しんだ人々のいる場所を目指します。あるいは南米のように現在もなお苦しむ人々のいる地域を訪れます。とりわけ貧困とは宿命ではない、と告げるために、そしてまた、祈る以上に夢見ることをやめてはいけない、と伝えるために。』

ロージ監督は『ローマ環状線』2013でローマの高速道路沿いの住民、『海は燃えている』2016でイタリア南端ランペドゥーサ島に押し寄せる難民にスポットライトを当ててその真実を迫真のドキュメンタリー(撮影に何年もかけて)で見せてくれました。今回の対象は全世界的です。貧困と戦争によって人々の生が脅かされている地域を訪れた教皇の”夢見ることを恐れてはいけない”というスピーチはロージ監督の想いでもあるようです。


Q&A ジャンフランコ・ロージ監督

Q「なぜ、教皇の映画を撮ったんですか?」

A「かなり長い話になります、私の映画はある人物・シチュエーションとの出会いから生まれます。この映画に関しては、9年前の私の作品『海は燃えている』というドキュメンタリーをきっかけに教皇がシチリアのランペドゥーサ島を旅したことでした。この映画を見た教皇とバチカンで会いましたが感動的な出会いでした。その後、私は『国境の夜想曲』撮影のために中東に滞在して帰国していましたが、パンデミック後、教皇も初めて中東のイラクを訪問しました。私がイラクで獲ったフィルムを見せて欲しいという依頼がバチカンからありました。その時、この作品のアイディアが浮かんだのです。

Q「教皇はこの作品をご覧になりましたか?」

A「ご覧になっていません。1か月前にDVDとポスターを持って訪問し、20分位お会いしました。”映画は見ない、虚栄心だから”というお答えだったのですが、木箱を開けたとき聖遺物のようにDVDを触っていました。その時、私の顔を見て言って下さった言葉は一生忘れません。「勇気を持て、リスクを負い続けなさい、人生に!」そして私に近づいて私にしか聞こえないような声で「私たちの前には保守派がたくさんいます・・」(笑)と囁かれました。配給会社のみなさんにお礼申し上げます。10月に日本の映画館で上映されることになりました。いま世界中で映画館に人々が戻りつつあります。もっともっと映画館に戻って来て欲しい。大きいスクリーンで映画を見ると自分ってなんて小さいんだろうと考える、これはとても得難い感覚です。」


『ロマンティック・コメディ 身体障害がおそらくありえないようなカップルのなかに溶け込み希望を奏でます』

 

フランス映画『パリ、嘘つきな恋』(2018)のリメイクなのでやはり比べてしまいます。コメディ映画なので笑わせどころが随分異なりますがハンディを負った女性をだまして近づく地位・財産に恵まれた男が追い詰められ、これまでの生き方を問い直していく、喜劇が悲劇になりそうな展開に観客の(笑)が激減していくところ、2作品とも上手くつくられています。今回の作品には障害者スポーツ連盟の協力が不可欠だったとか・・健常者と障害者の垣根がぐっと低くなりました。重厚な役柄の多いフランチェスコ・ファヴィーノのコミカルな演技も見ものです


『事実と実在した人物について語る映画です。1960年代のアルド・ブライバンティの物語。彼は教唆罪で9年の禁固刑に処せられた知識人であり芸術家である。この刑罰によって露呈したのは社会の同性愛に対する嫌悪と激しい攻撃であり、投獄と電気ショックで多様性を裁きます。』

同性愛に対する社会的な不寛容と暴力を描いています。アルドを擁護する共産党機関紙ウニタの記者が編集長によって失職させられる、保守と革新の接近がみられた60年代当時の政界の動きも伺えます。教唆罪で裁かれるアルドと電気ショック療法の後遺症で憔悴しきったエットレが法廷で出会う、映画祭14作品中、最も感動的なシーンになることでしょう、観客全員息をのんで見ていました。


Q&A アルド役ルイージ・ロ・カーショさん(抜粋)

Q「長いキャリアの中でこのような役、同性愛者の役を演じられたのは初めてですか?この役のオファーがあった時にはどのように思われましたか?」

A「とても若い時、20年くらい前に1度演じたことがあります。同性愛者の役というと1つのカテゴリーのように語られがちですが、私としては過去に演じてきた人を愛する恋する人と役柄は全く変わらない心持ちでやっています。この役に特殊性があるとしたら自分の生徒を愛したこと、詩を通じて気持ちを通じ合ったり、一緒に美術館を訪ねたり、本を交換したり、彼らのエロスが文化的な行為を通じて交換されていたという点については、初めて、特殊な役柄でした。」

Q「撮影で苦労されたことは何かありますか?」

A「エピソードについてよく質問されますが、恐いです、あまり面白い話ができません。心を揺り動かされた瞬間はありました。エットレが証言台に立つシーン、あの撮影の時は強く感情を揺り動かされました。」

Q「この作品は実話をベースにしていますが、どこまでが事実でどこが脚色でしょうか?」

A「この映画は事実、本当にあった裁判を背景にしています・・・」



『背景には環境汚染があります。ゴミ捨て場となったポー川河口を避けられないカタルシスを伴う復讐劇が繰り広げられます。』

世界遺産に登録されたポー川デルタ地帯の自然、そこに生息する生物(とくに様々な魚たち)が見られるだけでも大満足の映画です。天候の変化の激しい地帯での撮影が予想されますが、カメラのマッテオ・ヴィエイユが雄大な大自然を見せてくれました。今まで見たことのないイタリアがありました。環境保護の仕事をしている温厚で冷静なオッソ(ロ・カーショ)がルーマニア人一家と一緒に密漁を繰り返すエリア(ボルギ)に妹を撃たれてから復讐の鬼と化していく、ハリウッド映画に負けていないハードなアクションに移民・環境問題などの社会的な意味合いが深く込められています。

 


Q&A オッソ役ルイージ・ロ・カーショさん(抜粋)

Q「どうしてこのような役を引き受けられたのですか?」

A「この役は引き受けるべきではなかった?(笑) 脚本にすごく惹かれたということです。イタリア旅行されている人でもポー川デルタ

に行ったことがない人が多いと思います。この映画の背景であるあの場所こそが登場人物のひとりだ、と監督は考えています。

川は一つの生命体で水と土の関係性、そこに生きるための何かしらロジックがあってそれを守っていくためには人間が何とかしなくてはいけない。

この関係性にとても惹かれました。私が演じた人物は環境保全の活動家であり水量を調節する工場で働くとても懸命で仲介者のような人物でしたが自分自身のバランスがとれない状況になってしまう。」最初は2つの理由で断るつもりで監督に脚本返しに行きました。1つはこの人物はキャラクターが反転するわけで、その役柄を消化するのには時間がない、私はシチリア出身なので北の方言はできないということで・・しかし監督のミケーレは”できるよ、できるよ”、”そのうちしゃべれるよ”っ言われ、まるで催眠術にかかったように知らないうちに引き受けていました(笑)」


『スイングライド』監督キアラ・ベッロージさん 上映前挨拶

『今もなお、この二人の主人公が語るように多様性をめぐる状況は苦しみと暴力と無縁ではありません。』

人公ベネデッタを演じるガイア・デイ・ピエトロが素晴らしい。ベネデッタは平凡な肥満体系の女性ですが、その内面が詳細に語られることによって、観客の目に映る彼女はたまらなく美しく、魅力に溢れた女性へと変貌していきます。たまたま出会ったトランスジェンダーのアマンダと遊園地のスイングライド(空中回転ブランコ:日本の公園にある幼児向けのものではありません)で前後に座って蹴ったり触れ合ったりするシーンに二人の関係性が象徴されていました。過去の夢をあきらめない母親、家族への愛はあるが身勝手な父親など、大人たちの姿もリアルで、そこから自立していく子供を見つめた作品とも言えます。


Q&A 監督キアラ・ベッロージさん(抜粋)

Q「ベネデッタを演じた俳優さんはどのようにして見つけることができたのですか?」

A「初めて会ったとき彼女は15歳でした。その時期イタリアはパンデミックで国内移動が難しく、街なかでのスカウトはできません。インターネットを通じて学校で課外活動をしている、ちょっと太めの女の子たちのグループとコンタクトをとりました。・・ビデオを撮って送って貰いました・・・その中で、ガイアさんは子供っぽいところもありながら、今まさに女性になりつつある状況・・特に目のあたり(目にちからがある)が魅力的でとても惹かれました。」

Q「原題カルチンクーロは辞書に載っていない特殊な言葉ですが、どのような意味がありますか?」

A「カルチンクーロには複数の意味があります。メリーゴーランドのようなものの名前ですが、やる気のない人にむかってポジティヴにそのおしりを蹴っ飛ばす、”行きなよ!”という意味もあります。」


『ノーベル文学賞受賞作家ルイージ・ピランデッロを迎えた本作は1920年、創作の危機に陥っていたピランデッロは彼の師である有名な小説家の誕生日のためにシチリアに帰郷する。そこでアマチュア劇団を率いる二人の男との出会いが大きな驚きをもたらす』

 

ピランデッロが劇作家の先輩ヴェルガ(オペラ《カヴァレリア・ルスティカーナ》マスカーニ作曲1890初演の原作者)の80歳誕生日を祝うため、故郷シチリア・アグリジェントに帰ります。20世紀前半のシチリア、生きるのに精一杯でありながら陽気で活力に溢れた市井の人々が描かれる。そこで出会った二人の男たちは地方のアマチュア劇団を主催していた。ピランデッロがかれらの初演を見に行くと舞台と観客が一体化して大騒ぎになっていた。役者と観客、観客同士、そして役者同士の間の応酬は1つのドラマ空間として素晴らしく出来上がっていて、このシーンだけでも繰り返し見たくなります。”ピランデッロ演劇の特色は舞台と客席の垣根を取り払う”と言われますが、彼はこの体験から何らかのヒントを得たのか?ロベルト・アンドー監督の発想は、当時、劇中劇で有名なオペラ《道化師》(レオンカヴァッロ作1892初演)が人気を集めていたこともあり、的を得ているかも知れません。ピランデッロはどこで何を「奇妙なこと」(題名)として捉えたのか、今一度、鑑賞して確かめたい。

Q&A 監督ロベルト・アンドーさん ピランデッロ役トニ・セルヴィッロさん サンティーナ役ジュリア・アンドーさん(抜粋)

トニ・セルヴィッロさんへQ「多くの映画に出られていますが、役作りについて特に印象に残っていることはありますか?」

A「監督と演じ手がその役を共有するという事が大事だと思います」

監督ロベルト・アンドーさんへQ「この作品はトニ・セルヴィッロさんあてにつくられたのですか?」

A「私は彼を念頭に脚本を書くことが多いです、この作品はピランデッロの創作に対するオマージュとしてつくられています、ピランデッロを演じるのはトニ・セルヴィッロしかいない、と考えていました。」(拍手)

トニ・セルヴィッロさんへQ「演劇と映画の違いはどこにあると思いますか?」「舞台が好きな所は大きな感情が俳優とお客さんと同じ時間に起きることです。演劇は場所を同じくして最初から最後までお客さんと俳優が

共有する最後の場所だと考えています。映画の素晴らしい所は、監督がカメラを近づけてくるとちょっとした表情や目線で内面をものすごく伝えることができる点です。映画と演劇は夫婦であって寝室は別のような・・」(笑)。

トニ・セルヴィッロさんへQ「美術や演劇の分野で活動している人たちに何かメッセージをいただけますか?」

A「私は出会ってきた幾人かの監督たちが私の活動に厚みを与えてくれました、こうした出会いがみなさんにもあるといいと思います。私たちイタリア人は日本から学ぶことが多いです。人生や生活の中での儀式、儀式があるからには行動規範があって、それをとてもきめ細やかに体現している日本の方々にとても感激します。東京の街を歩いていても感じます。私たち西洋人はもしかしたら忘れているのかも知れない。」(拍手)

監督ロベルト・アンドーさんへQ「なぜこの映画をつくられたのですか?」

A「何年も前から構想はもっていました。ピランデッロは人間の様々な存在を描き、人間の存在の不確かさについても思いを巡らしていました。この映画をつくって分かったことは作家が創作の際に何をしていたか、つまり他人の話を聞いて関係性を作ろうとする、そのことが彼の創作につながった・・こう考えると私たち誰しもが作者であり演じ手であると・・このことをピランデッロは分かった、その瞬間を映画で描けたのは素晴らしいことでした。」(拍手)



『題名とその甘美さとはうらはらに抗いがたい怒りの衝動に突き動かされた復習のスパイラルが絡み合います。一方、舞台となったナポリからは現在よりも執拗な過去の記憶が浮かび上がります』

40年ぶりに再会した旧友は地元で疫病神のように恐れられる人間になっていた。観光都市ナポリが犯罪都市ナポリになってしまう

ほど、観客のイメージを左右します。舞台はナポリのサニタ地区(低所得層居住地)、主人公フェリーチェの少年時代の思い出のシーン

はまさにノスタルジー溢れるものでした。フェリーチェの旧友オレステを演じたトンマーゾ・ラーニョは凄い、日本での知名度はあまり高くない俳優さんですが、フェリーチェと会って、心の闇に光が灯されそうになったかに見えるも、再び閉ざされていく人物になりきって演じていました。

Q&A オレステ役トンマーゾ・ラーニョさん(抜粋)

Q「今回の役柄についてお話下さい。」

A[私の主役のファヴィーノもナポリ出身ではありません。でもその事がまさに異邦人としての存在感を出せたのではないか・・・ナポリ語のあのニュアンス、リズムを話すのに苦労しました、ファヴィーノは多様な言語を自分のものにする才能がありますが、自分にはないので個人レッスンを受けてやっとナポリ語のクオリティに達しました。・・・私が演じた犯罪者的な人物は周りが作り上げた虚構かもしれない、実体がない人物、死者たちの世界から来た精霊ではないかと・・・自分にとっていかに難しい役だったか・・マクベスを映画化した黒沢明の《蜘蛛の巣城》を見て学びました・・・一昨日、鎌倉の小津安二郎のお墓を訪ねました。漢字で”無”と書いてあって、お酒が山ほどお供えしてありました”大酒飲みだったのかな?(笑)”、私に大きな影響を与えた監督ですが”無”と書いてあるお墓の周りにたくさんのお酒の瓶がある、生者と死者の境界線ってすごく曖昧ですぐ行き来できるもの?と思ったんです。生と死の曖昧さはナポリなんです、私がこの映画ノスタルジアに出たことはその曖昧な世界・・モノローグを始めてしまいましたが・・皆さんの前でお話できて幸せです・・・」(笑)(拍手)


『70年代になっても多様性は異質な何かとして見られ続けます。自らのアイデンティティを探す、すばらしい女性主人公が”私は違う星から来たんだ”と叫ぶゆえんです。』

美しい母親を暴力的な父から守りたい気持ちがつのって、アドリアーナはアンドレアと名乗って男の子のように振る舞う。性同一性というテーマを通して、70年代のイタリア社会を描く。アドリアーナがアンドレアとして、ジプシーのサラと出会い友情を深めるが、サラのバラック住居群が開発のため取り払われてしまうことや、アドリアーナの妄想場面に流れる曲を通して高度成長期にあったイタリア社会を懐かしく見せてくれます。トランスジェンダーに対する周りからの冷ややかな空気感は自身、性転換して男性になった経歴を持つエマヌエーレ・クリアレーゼ監督でなければ描くことができなかったに違いありません。ペネロペ・クルスが70年代のヒット曲《ある愛の詩》を歌い踊る白黒のシーンはこの映画に華やかさを加えてくれました。


『乾いたローマ』 作品紹介 舞台俳優アルフレード役トンマーゾ・ラーニョさん

「パンデミックのちょうど1年前に脚本が書かれています、従ってちょっと予言的な内容になっています。撮影が2021年2~4月でまだ真っ最中だったので実際に起っていることが映画の内容を浸食しているようで、現実に起っている自然災害にもう一つの災害が重なって起こりました。いくつもの小さい物語が交錯し合って最終的にはパズルのピースがはまって全体像が見えてくる。乾いたローマというタイトルは単なる水不足というだけでなく、人々の人間関係への渇望が描かれています。人間全体を見るとコメディーなんだけど全体を構成する個人は悲劇的でもある。お楽しみ下さい。」

 

「主要登場人物は12人、あるいはそれ以上でしょうか。地球温暖化に苦しみ狂暴化した人類の弱さを描くディストピア映画です。」

テヴェレ川が干上がり、古代ローマの遺物が姿を現す場面、まさに世界各地から報道される気候変動ニュースと見てしまうほど現実的なものでした。ゴキブリの飛び交う環境に住みながら多くの登場人物が交錯する、各々の人物が織りなす物語はまさかと思う展開を見せ、観客があっけにとられるほどです。各エピソードの顛末をいちいち考えているとまさに干上がってしまいます(笑)。原案は小説『素数たちの孤独』の著者パオロ・ジョルダーノ、素粒子物理学を専攻した彼の頭のなかではパズルのように各エピソードが繋がっていることでしょう。


『アレッサンドロ・コモディンは、近年、不可能を可能にしたイタリア人映画作家の一人です。彼の映画は現実と虚構が出会う場所です。

この作品のユニークさによって配給会社はドキュメンタリー的コメディという新しいジャンルに分類しました。』主人公の警官ジジに扮したのは本物の警官だそうです。新米警官パオラとのやりとりだけを楽しみに日々パトロールをこなすだけ。謎解きも追跡のアクションもカーチェイスもない、片田舎(ヴェネト州の小さな町)のパトロール警官をドキュメンタリー風に見せることが監督の意図のように思われます。終盤近く、無線の相手だったパオラが同乗者として登場、これから何かが起きるかも知れないことを観客は期待するところで終わるあたり、コメディとは言い難い余韻を残します。


『巨匠マルコ・ベロッキオはこれまでしばしば行ってきたように社会通念を壊します。今回は連続テレビドラマの約束事を破りました。この作品を連続ドラマ、6つのエピソードから成る映画、ひとつの映画テクスト、というように、一様に定義するのは不可能です。ここで6時間近いその映像美を表現する方法はありません。それぞれの観客が独自の視点を見つけることでしょう。それは映像の奥底で、その最深部で船乗りたちの目に最初に白鯨が現れる時のように、白い小さな点を発見することでしょう。それは実現したかもしれないのに、実際には起きなかったことへの、胸を搔きむしるようなノスタルジアです。』

60年代のイタリアの政界はカトリックとキリスト教民主党に代表される保守勢力と共産党が歩み寄ろうとしていた時期でした。これに反発した「赤い旅団」

が武装闘争を激化させ、”「保守」と「革新」の歴史的妥協”の実現の立役者モーロ元首相を誘拐・暗殺する。映画はモーロは暗殺されなかったというフィクションから始まる。それは”実現したかもしれないのに、実際には起きなかったこと”であり、モーロ解放のために尽力する人々と傍観した人々のドラマを通して、もしモーロが生きていたら1978年以降のイタリアの政治は現実とは大きく変わっていたのではないか、監禁中のモーロが「私は普段、人を批判することはしない人間だがアンドレオッティだけは絶対許せない」と言い残す場面にマルコ・ベロッキオ監督の想いが込められているようです。第5話に登場するモーロ夫人役のマルゲリータ・ブイの圧倒的な存在感が政治ドラマを家族のドラマとして感動を盛り上げてくれました。2023年ドナテッロ賞でモーロ役のファブリツィオ・ジフーニが最優秀主演男優賞を、その妻エレオノーラ役のマルゲリータ・ブイが最優秀主演女優賞にノミネートされています。