ある建築家の言、「建築は都市という大きなキャンバスのなかに描かれた絵、建築を三次元の絵として鑑賞しよう」・・素晴らしい御提言、『三次元の絵』、素敵な表現ですね。一刻も早くイタリアに行って建築ウォッチングがしたくなります。そのための予備知識を持ちたい。このコーナーはソフィア教授と私マルコの問答形式ですすめていきます。


                       参考図書:西洋建築様式史(鹿島出版会)  教会建築を読み解く(ガイアブックス)  世界の建築様式(ガイアブックス)  西洋キリスト教建築(丸善出版) 

                         ブルネレスキ・ブラマンテ(中央公論)  西洋建築史(彰国社) 図説世界建築史(本の友社)  西洋美術の歴史(中央公論新社)  美術の歴史(創元社)


マルコの質問コーナー 回答者 ソフィア教授


「教授!!イタリア観光旅行では教会・美術館・博物館いっぱい見学します。どこも荘重・典雅で圧倒されてしまいます。でも残念ながら、みな同じに見えてしまって、…猫に小判、豚に真珠、なのです。基本的な知識を持って旅行したいので少し教えて下さい。え~っと、教授はたしかローマ大学建築学科の先生でしたね、ローマ生まれの、ローマ育ち、ローマっ子ですね、建築以外のこともよろしくお願いします。


「OK! マルコは勉強熱心だから喜んでお話します!!私たち2人だけの時間はたっぷりあるので、マルコが小学生だと思ってゆっくり話しましょう、何でも遠慮なく聞いて下さいね。たしかに私はローマで生まれたけど育ちはナポリ。日本には何回か行ったことがあります。今川焼がおいしかったの覚えてます。」          


「さっきマルコは教会って言ってたけど、呼び方がいくつかあります。街歩きしてればよく見かける案内図をご覧!、例えば1段目ドゥオーモDUOMO、2段目キエーザCHIESA同じマークで両方とも教会だけどドゥオーモはその街を代表する司教さまがみえる教会でキエーザはイタリアじゅうの町や村にある司祭さまがみえる教会です。ドゥオーモは大聖堂でカテドラーレと言われる場合や場所もあります。カトリック教会の聖職者階級は大司教→司教→司祭なので深く関係しています。マルコは日本人で仏教徒なのに教会行くの?


 イタリア旅行では歩くことが基本。休憩に教会ほど便利な場所はありません。いつでも座れる、なぜか気持ちが落ち着

 くし、水分補給をする、地図で位置を確認する、などができます(不謹慎ですいません)。日本にもお寺はいっぱいある

 けどこんなに気楽にはれません。教会の呼び方について、もう一つ質問があります。どこの町だったか、思い出せな

 いけどドゥオーモやキーザやカテドラーレでもなくバジリカ(バシリカ)って標識にあったところがありました。バ

 ジリカについて教授の話が聞きたいです。


バジリカ式


マルコは記憶力いいのね!!とってもいい質問です。キリスト教が公認されてから信者たちが集まって典礼を行う場所として教会ができたのだけど、以前から古代ローマでは宗教とは無縁の裁判や市場など、人が集まる場所にある建物はバジリカと呼ばれてたの。この建物の形式をもつ教会を「バジリカ式」と呼びます。だからキリスト教の初期の頃はバジリカは教会の総称としても使われた言葉だったの。一般のバジリカとバジリカ式教会が違うところは図の①にあるアプス(可能な限り東向き)と呼ばれる半円形の空間が奥に造られていて、入場者は自然と入口からアプスに向かうようにつくられています。建物の柱も左右に並べられて柱の間の空間が②身廊③側廊です。③②③の形式→「三廊式」 ③③②③③→「五廊式」と呼びます。初期の頃は階段→中庭(中央に泉)→建物入口という形が多くみられます。キリスト教が公認されて間もないころは、信徒以外の人たちが簡単に教会に入らないよう、中庭の泉で洗礼をし、玄関廊は再確認をする空間として設けられていました

 

結局、バジリカ式は教会の内部の基本構造と言う事ができるので、外観がロマネスク、ゴシック様式でも

基本はバジリカ、と考えていいのよ。マルコは教会に入ると、一息つけるって言ったけど、それは教会がそのように造られているからなの。聖歌隊やオルガンの音がよく響くように工夫されているので、柔らかな音の響きが来訪者を包み込んでくれるし、天使や聖人たちの絵画・彫刻、ステンドグラス越しの光がやさしく見守ってくれるので、誰でも一瞬、神様や天国とつながっているかのような神聖な気持ちになれるの。  


「ありがとうございます。これからは道案内を見たり、教会に行くのが益々楽しみになりました。「アプス」の周りの祭壇画や彫刻のことも知りたいです。日本に五重塔があるように教会にも塔(鐘楼)があります、僕の記憶によるとラヴェンナとピサの塔だけが円塔で、あとはみな方形塔だったと思いますが理由を教えて下さい。ラヴェンナとピサは半島の反対側にあって地域的なつながりはなさそうだし、塔の建造時期にも数百年の差があるし、とても興味があります。」 



塔の形を見比べるのも、面白い観点ですね。でも今のところ形の変化の理由は定説がなくて答えられません。

ラヴェンナの聖アポリナーレ・イン・クラッセの円塔はイタリア最古のカンパニーレ:鐘塔(鐘を備える塔)で、9世紀の建立です。聖堂との位置関係に注目して下さい。イタリア以外では鐘塔は聖堂そのものに合体して建てるのが普通だけど、イタリアの場合は日本の五重塔のように聖堂から独立分離しています。建築材料は主にレンガで、優雅、典雅というより質実剛健、稚拙なところが面白くて、一種の気品さえ窺えます。11-13世紀になると、カンパニーレ鐘塔は円形プランは放棄され、方形プランが多くなります(ピサの塔は例外的に円形)。ピサの斜塔、フィレンツェ:ジォットの鐘塔のような大理石の豪華なものも現れます。


聖堂から分離している理由の1つに地震の災害を軽減するためだった。」と聞きました。塔そのものとしての建築が発達していくんですね。最初から横道にそれてしまってすいません、それでは教授、あらためて、イタリア建築の歴史を簡単に教えて下さい。キリスト教以前のローマ時代からビザンティン建築、中世ロマネスク建築、ゴシック建築、ルネサンスそしてバロック・・イタリアには混在していて整理がつきません。


旅行者の多くは一様に「建築は皆おなじに見える」、「いや、確かに国々で建築は違って見える」という感想を抱く。・・・様式は最初から完成した形で現れるのでなくその移行期には前の様式を引きずっているし、ひとつの様式が各国に行き渡るまでには何世紀も年月がかかり、その間にそれぞれの地方の伝統と融合したり、建築材料を異にしたり、建築家

の独創と施主の好みが加わり、様々なヴァリエーションが生まれます。以上のことを踏まえながらイタリアで見られる建築様式について、旅行者に役立つように場所もチェックしながら整理していきます。


エトルリアの建築

エトルリア人は前8-1世紀にかけて、最盛期にはポー川からポンペイ近くまでを勢力下としていました。建築では不明なところも多いけど神殿と墳墓においてはかなり判明していて、この2つの建築はローマ建築に大きな影響を与えたようです。ヴィッラ・ジュリア博物館(ローマ)で見られるエトルリアの神殿にはいくつかの特色があります。

石造の高い基壇の上に日乾レンガの壁と木造の柱が立ち、その上に木造の梁と屋根がのります。梁や軒先にはテラコッタ製の彩色豊かな装飾板がかぶせられ、前面にトスカナ式円柱が並び、背面は

壁のみです。この高い基壇と正面性は後のローマの神殿建築に継承されていきました。

 


古代ローマの建築


歴史の教科書には古代ローマでは、権力者が大衆の人気を得ようと「見世物」を開催するために大きな建造物をたくさん造った、と書いてあります。戦勝記念の凱旋門、広場や神殿、商業施設、公共浴場などです。人口増にともなって常設のしっかりした建造物が石、コンクリート、レンガなどで建設され、いずれ人々の生活に密着したものだったようです。これらの建造物のうち、多くの旅行者が訪れるところを幾つか取り上げてお話下さい。


民衆に食糧と娯楽を与えて社会の安定を図る政策を「パンとサーカス」と呼びます。この言葉は、ある詩人が当時の大衆を批判して言った言葉に由来します。サーカスという語は本来、古代ローマの競技場キルクスを意味していました。ローマ帝国ではほとんどの都市に劇場や円形闘技場が建設されたけど、大観衆を収容するキルクスが造られたのは大都市だけです。ローマ人は彫刻・絵画だけでなく、見世物を動く視覚芸術としてとらえていました。頻繁に開催されるため、観客たちの目も肥えていたので開催者は大衆の心を捉えようと、見世物の背景となる建築体に心を砕き、より刺激的なものを提供しようとしました。






神殿・広場・凱旋門

ローマ人はアーチ構法とエトルリア神殿の建築を受け継いだ。アーチ構法は前3世紀にはすでに習得していた(エトルリアとギリシアのどちらから学んだかは不明)。そして前2世紀にはヘレニズム世界との政治・軍事上の関わりによって、その建築の影響を受けるようになった。ローマ建築へのヘレニズム建築の影響は神殿建築に最もよくあらわれていた。その例としてローマ:テヴェレ河畔のウェスタ神殿とポルトゥヌス神殿がある。ウェスタ神殿は大理石を使用し、コリント式オーダー(ポルックス神殿)が用いられている。ポルトゥヌス神殿は高い基壇の上に立ち周柱式の平面をもつ。この周柱式や列柱廊の広場、そして大理石で造ることはヘレニズム建築に由来する。このことはフォルム(ギリシア・ヘレニズム都市のアゴラに相当、都市の行政・宗教・商業施設がひとゆの広場のまわりに集積された場)にも同様に言う事ができ、例を列柱廊で囲まれたポンペイのフォルムに見ることができる。


後1世紀-4世紀にかけて、ローマ建築はコンクリートという可塑性の材料によって、ドームによる建築空間と独自の採光法がギリシア・ヘレニズムの建築とは異質のまさに、究極のローマ建築が造られていった。ティトゥスの凱旋門、パンテオン(当時の最高の建築技術によって、「建築とは柱や壁といった実体部分だけを作り出すものだけではなく、それらによって作り出された空間そのものを創造する芸術である、ことを最も端的に示している」と言われる。上に行くにしたがってより軽量の材料からなるコンクリートを使用し、荷重を上から下へ効率的に伝えるための数多くのアーチが円形の壁の中に組み込まれている。コンクリートのドーム建築がひとつの「頂点」に達した。)、皇帝ハドリアヌスの別荘(ティヴォリ近郊)などがその例である。そして、ローマ建築として有終の美を飾るのがコンスタンティヌスの凱旋門である。313年のキリスト教公認によって、キリスト教美術が勢いつき、建築の世界はキリスト教の聖堂建築を中心としたものへと移行していく。


これから時代区分では古代から中世に移っていきます。「西洋中世美術」の流れは少しだけややこしく思えるかもしれません。中世の美術には2つの道がありました。ローマ教会(カトリック教会)の影響下にあらわれた初期キリスト教美術とコンスタンティノープル教会(正教会)の下に生まれたビザンティン美術の東西2つの流れがあったのです。西欧の初期キリスト教美術は11世紀のロマネスク・ゴシック美術へとつながっていき、ビザンティン美術は1000年以上にわたって継続しました。


初期キリスト教建築・・「バシリカ式」と「集中式」の二つの基本形を中心に展開


バシリカ式はマルコの質問に答えるかたちで、基本的なところは、もうお話しました。ここではおさらいをします。4世紀のキリスト教の公認、国教化で今まで地下に潜っていたキリスト教徒たちは公の場で集会が行えるようになりました。急速な信徒の増加を背景に大規模な集会を可能にする聖堂や新たな入信者のための洗礼堂、聖人たちを記念する殉教者記念堂などが必要になりました。

従来の古代ギリシア・ローマの神殿建築では、神像を納めた内部空間は一般の信者には閉ざされ、彼らは神殿の外に設置された祭壇周辺に集まりました。一方、キリスト教の典礼は聖堂の奥に設置された祭壇を中心に行われたので、すべての参列者を建物内部に収容する必要がありました。このために採用されたのが、建設が容易で収容能力の大きいバシリカ式聖堂(教会)でした。マルコに最初に見てもらった平面図でもう一度、一般的特徴を整理すると、入口⇒アトリウム(前庭)⇒ナルテクス(玄関廊)⇒身廊・側廊・列柱・高窓⇒アプス(半円形の張り出し)⇒カテドラ(司教の座席)となります。

    ※アプス=アプシス 高窓=クリアストーリー  アプスと身廊・側廊のあいだにはトランセプト(翼廊)が導入されることもある

信徒たちはアトリウムで身を清めナルテクスから堂内に入場して、身廊をまっすぐ進み奥の祭壇に至る、典礼の自然な流れ作られる、水平方向の動線、外部の世俗空間から内部の神性空間へと導かれる空間構成が達成されていたのです。建設にあたっては、しばしば古代建築の資材が再利用されました。安価に大量に迅速に建築資材を得られるだけでなく、古代異教世界を源泉とする資材をキリスト教聖堂に取り込むことで、異教に対するキリスト教の勝利を宣言した、という解釈もされます。バシリカ式聖堂は4-6世紀、イタリア、地中海沿岸、アルプス以北まで広がり、規模もさまざまでヴァリエーションも豊富でした。西欧キリスト教世界の聖堂の主要な建築様式として、中世ロマネスク・ゴシック、ルネサンス・バロック時代を経て今日に至るまで、その基本的形態を保ち続けています。

現存している典型例としてサンタ・マリア・マジョーレ大聖堂(ローマ)、サンタ・サビーナ聖堂(ローマ)、サン・タポリナーレ・イン・クラッセ聖堂、サン・タポリナーレ・ヌオヴォ聖堂(ラヴェンナ)があります。


集中式の建築もバシリカ式と並んで、重要な建築タイプでした。円形、八角形、六角形、正方形などさまざまなタイプの建物が含まれます。これらの建築は、中心に祭壇を設ける形式が多く、一般のミサ典礼を行うには適していません。入信の際に洗礼を行うための洗礼堂、殉教者を記念する殉教者記念堂、宮廷礼拝堂といった特別な儀式や目的のために利用されました。特に洗礼堂は、キリスト教の入信儀礼である洗礼を行う場として最も重要であり、キリスト教の公認以降、急増する改宗者を受けて数多く、さまざまな場所に建造された。洗礼堂には八角という建築プランが多いのは「八」という数の象徴性と結びついている。            「ペトロの手紙・・・八人だけが水の中を通って救われました。洗礼はイエス・キリストによってあなたがたをも救うのです」


ソフィア教授!!古代の建築(エトルリア・古代ローマ・初期キリスト教時代)についてのお話ありがとうございました。一つの都市の中にエトルリア時代の城壁、古代ローマの公共建造物、バシリカ式聖堂が混在しています。建物ウォッチングはバード・ウォッチングのように対象物其々の特性や由来を知ると一層楽しめることがわかりました。イタリアは何度訪れても新しい発見があります。教授、これからはいよいよ中世、教会建築のお話がまだまだ続きそうですね!


はい、ローマ帝国が分裂した古代末期から中世、4世紀後半から12世紀頃までの西欧社会はとっても宗教的(キリスト教)で、建築家はもっぱら教会建築に努力を集中させたからです。でもルネサンスの時代になると公共施設やパラッツォ(宮殿)、邸宅が壮麗な建築物として登場してきます。お楽しみに!


中世   ビザンティン建築

330年、ローマ皇帝コンスタンティヌスが都をローマからコンステンティノープルに移し、大がかりな建築活動が始まりました。これ以降、東ローマ帝国の地域を中心に発展した建築様式をビザンティン様式といいます。古代末期のバシリカ式教会にオリエントの建築技術を結合して、より壮麗な教会を建築しました。キリスト教の勝利と栄光を「神の座としてのドーム」に象徴させ、東方教会の教会にはドームが重要な要素になったのです。ドームの円形は「神の終わりなき運動」を示し、ドームと立方体を組合せることで天と地の結びつきを現わしています。また、アプスへ向かう典礼行進が見栄えするような細長い広間の方向性とドームのし垂直性をうまく組み合わせる、伝統的バシリカプランとドームを結合させる、という課題を解決することでビザンティン建築は生まれました。ミサの間に聖職者が行列をなして入場してくる東方教会の礼拝式によって、身廊に重点が置かれ一般信徒が側廊、回廊からそれを眺められる形が考えられました。代表例はサン・ヴィターレ聖堂とサン・マルコ大聖堂の2つです。



ロマネスク建築 10世紀後半-12世紀


マルコ:僕は高校の世界史でロマネスク建築・ゴシック建築は中世文化(建築)の項目で習いました。2つの建築様式はいずれもフランスやドイツの大聖堂が代表例になっていました。イタリアにもありますか?


ソフィア教授:10世紀後半から12世紀、ヨーロッパではロマネスク様式の建物がいっぱい建てられました。900年代は「西暦1000年に世界が終わる」という終末思想が広まっていましたがそれが何事もなく過ぎ去ると人々は一安心、この安堵感が建築にも反映されました。十字軍遠征やサンチャゴ・デ・コンポステラなどへの巡礼熱が高まって聖堂建築も盛んになり、フランス・ドイツを中心に広がりました。「地上における神の家」だから不燃で恒久的であるべき、という理念のもと建築の形状は力強くなりました。木造平天井に代わってヴォールト(石材によるアーチ構造で造られる屋根)が用いられ、重い天井部分を支えるため石壁は厚く、柱は太くなり、窓の開口部が小さいので内部は暗くなりました。逆に広い壁面に多くの壁画が飾られ、音響効果も良いので聖歌等の音楽の発展にもつながったとも言えます。

キリスト教信仰では、軸線や空間のかたちは重要な象徴性をもっています。聖堂は救世主の到来を象徴する陽の昇る東側に向かって軸線が定めら、平面は十字架のキリストをかたどっていて、半円形のアプシスは光輪をつけたイエスの頭部に相当します。垂直構造は下部の方形プランから上部の円形プランへと移行、つまり、現世を意味する長方形の構造から円環をなす天上の世界への上昇を示しているのです。 イタリアのロマネスク建築の特徴は2つ、バシリカ式建築の形態を頑なに守ったこと、地方的特徴があったことです。それでは、マルコの旅行の参考になるように代表例をまとめてみましょう。


  • モデナ:大聖堂(12世紀初頭)⇒ロンバルディア・ロマネスク様式 石造、レンガ、大理石で化粧されている。
  • フィレンツェ:サン・ミニアト・アル・モンテ教会(11世紀)⇒初期キリスト教バシリカ式の伝統が強く、明るい色大理石のファサードはイタリア・ロマネスクの特徴を示している。下層の古典的な円柱やアーケードは後のルネサンス建築につながる。
  • ピサ:大聖堂(11-14世紀)⇒本堂・洗礼堂・鐘塔(斜塔)・カンポサント(墓地)など、各建物を独立させるのはイタリアの典型的な配置で、素晴らしい建築複合体を作っている。聖堂は大小3つのバシリカを結合したようなプランで、白・赤の大理石で外装を施され、イタリアらしい風格と明るさに満ち溢れている。大理石の4層の列柱がファサードの上部にあって光と影の繊細な装飾効果を生み出している。この軽さとリズム感が抜群のファサードの分節化はピサ・ロマネスク様式の真骨頂と言われ、南イタリアとヨーロッパ全土に見習うべきモデルとして伝播していく。
  • ローマ:サン・パウロ大聖堂:回廊(13世紀)⇒ビザンチン様式とロマネスク様式の要素が融合 幾何学的模様の彫られた円柱が精巧で視覚的に高揚させる。
  • アマルフィ:アマルフィ大聖堂(9-13世紀)⇒多色の石材による幾何学模様(地中海対岸のイスラム装飾に由来)が取り入れられている。 
  • バーリ:サン・ニコラ聖堂(12世紀)⇒天井の高い翼廊と暑い壁による力強いプーリア・ロマネスク様式
  • シチリア: モンレアーレ大聖堂(12世紀末)⇒パレルモからバスで40分 世界最大と言われるモザイク装飾 ノルマン式建築の代表とも言える。


ゴシック建築 12世紀後半~13世紀


ゴシックは北方からローマ帝国に侵入した民族(ゴート族)への蔑称として、ルネサンスの建築家たちがつくった言葉です。この時代、教会建築に大きな変化が見られます。古代文化の流れをくむ円柱・アーチにキリスト教神秘主義的上昇感を組み合わせたスタイルです。ロマネスクより天井が高くなり、窓も大きくなりました。尖頭アーチによって内部空間が広く高くなりました。大きくなった窓にはステンドグラスが設置され、「バラ窓」「ランセット窓」(槍の穂先のように細長い)も備えられました。内部が繊細で美しい神秘的な光で満たされ、フレスコ画に代わって大流行しました。「聖母崇拝」が頂点に達した13世紀、先程、マルコが例にあげたノートルダム大聖堂が各地に建設されたのです。

 しかし、イタリアではこうしたゴシック建築の論理にならうことが少なく、ロマネスク建築の影響を保ち続けました。それでは地方色豊かなイタリア・ゴシック建築をいくつか紹介します。少し辺鄙なところもあるけど、のんびり旅なら大丈夫!時間に余裕をもって訪ねて下さい。





公共建造物、世俗建物:13-14世紀にイタリア諸都市で建造されたパラッツォは重厚な趣を持ちながら、すらりと伸びた塔や優雅な形状の窓、繊細な浮彫などによって和かな印象を与えています。シニョリーア宮(フィレンツェ)、プッブリコ宮(シエナ)、ドゥカーレ宮(ヴェネツィア)、プリオーリ宮(ペルージア)、カ・ドーロ(ヴェネツィア)


はルネサンス時代の建築の番ですね。ルネサンスの意味は「古代文化の再生・復興」って習いました。ロマネスクからゴシックへと中世の建築様式が展開してきましたが、この時代に古代ギリシアやローマの建築が再生した、と考えても良いのですか?

 


そうです、少し付けくわえれば、ローマ時代の建築要素を受け継ぎながら新しいものも取り入れた、と言えます。円柱、アーチ、ドームのような古代ローマの建築の形態を用いますが単なる模倣ではありません。ルネサンス建築は古いものと新しいものを結びつける(歴史の継承)ものでした。ルネサンス建築の新しい面として、教会と並んで公共施設、パラッツォ(貴族の邸宅)なども対象となったこともあげられます。彫刻・壁画装飾は建築家が画家であり彫刻家でもあったから美術的にみごたえのある装飾が目立ちます。住宅建築では中世の狭苦しいらせん階段にかわって、広くゆるやかな直階段や折れ曲り階段が用いられます。個々に建てられた建築が、自然に秩序感のある町を形づくっていくという性質が含まれていたため、フィレンツェやフェラーラは街全体でルネサンスの雰囲気を伝えています。それでは、主なルネサンス建築を見ていきましょう。


フィレンツェ大聖堂ドーム:1420-61 ブルネレスキ ドームがこのように高く、むき出しの形で建造されたのははじめてのこと 古代ローマ以降で最も大きなドームで、二重殻のレンガ造りにして重量を減らすとともに、ドームの基部に木材をつないだ環をはめてドームの破裂を防いでいる。構造的及び工学技術の復興の象徴として、また、ルネサンス・フィレンツェの象徴として輝き続けている。ルネサンス建築はブルネレスキの存在に負っている。ドームの上にのる古代様式のランタン(窓のある上部構造)が巨大なドームに調和をもたらすと同時に、古典古代を理想とするルネサンス建築の始まりを告げている。

当時、ヴェロッキオの工房で修行中のレオナルド・ダ・ヴィンチはランタンの上に十字架付き球体の設置に悩んでいた親方に、滑車つきのクレーンの設計図を提供して見事、工事を完成させた。  十分在り得るフィクションをドラマ化した 2021制作 ドラマ「レオナルド」より↑


サン・ロレンツォ教会:1421-69 フィレンツェ      メディチ家当主からの依頼により、ブルネレスキが設計した 規則性が強調され、設計全体が方形の単位で構成されている。四つの大きな正方形が内陣、交差部、両翼部を形成し、さらに一連の四つの正方形が縦に並んで身廊となっている。 端正な美しさを得る方法としてブルネレスキは教会を「空間ブロック」の集合体として構想、大きな方形は小さな方形の四つ分とまさに同じになるように考えた。この結果、ゴシックの教会内部の温かで流動的な感覚とは違って、静的な秩序と透き通るような軽快さを感じさせることになった。この革命的とも言える発想はゴシックの建築家の思考法から徹底的に離脱し内部は静的な秩序、透き通るような軽快さが漂う。調和的で均衡のとれた設計は  円柱の半径や直径を基本単位として、円柱の高さ、柱の間隔など、全ての部分の寸法を割り出している。ルネサンス建築はブルネレスキに負うところが絶大である。


1470-1512 マントヴァ アルベルティはルネサンス様式の教会にふさわしいファサードの形態を追求した。4本の大きなピラスターで三角形のペディメントを支えることによって古代ローマ神殿の外観を生み出し、入口は凱旋門の要素を取り入れた。壮大な天井ヴォールトはローマの巨大浴場建築に対する彼のオマージュだった、と言われる。近世教会建築の基本となった大作、内部は正方形と1対2の比率で統一されており、ローマ神殿を想像させる荘重さである。

テンピエット 16世紀初め ローマ 聖ペテロの殉教記念堂 ブラマンテの最高傑作と考えられている ローマの円形神殿パンテオンの要素を取り入れ、男性的なドリス式円柱が建物の荘重さを生み出した ドラム(円筒部)の上にのせたドームを中心とする構想はローマ時代にはない斬新なものだった。ブラマンテは初代教皇ペテロの紋章をフリーズの四角いパネルに刻んでいる。  

ファルネーゼ邸:1530-45 ローマ 16世紀、盛期ルネサンスの代表的な邸宅建築  富豪は都市の景観を美しくするだけでなく、その富と地位を誇示するために建築を用いた。3階建てでフィレンツェの邸宅(1446-51 アルベルティ ルチェライ邸など) をモデルしており、列柱に支えられた窓が並列的に用いられ、ファルネーゼ家の家紋が目立つ場所に印されている。

サント・スピリト教会:1445-82 フィレンツェ ブルネレスキ ルネサンス建築では、簡単な整数比が建物の平面や立面を支配していること、数学的に明快な比例が重要なこととされた。ルネサンスの人々は数学的に明快な比例を好んだ。コリント式アーケードや交差部のビザンティン式ドームなど古典建築のモチーフを採用し、建物全体は1対2の比例で統一されている。



建築のルネサンス様式は15世紀フィレンツェで生まれ、急速にイタリア全土に広がります。そして、16世紀には他の西ヨーロッパ諸国に伝わり、中世ゴシック建築にかわる新しい建築として普及していきました。初期ルネサンスから盛期ルネサンスへの変遷はブラマンテ・ミケランジェロの2人が軸となってすすみます。1490年代ミラノで仕事をしていたブラマンテは、この間、レオナルド・ダ・ヴィンチと親交を深め、その影響も受けたもようです。ブラマンテは晩年、ミラノからローマに拠点を移し15年間過ごします。16世紀前半、カトリックの本山としてのサン・ピエトロの建替えを決定した教皇ユリウス2世(位1503-13)は当時、ローマ随一の建築家となっていたブラマンテにその大事業を託しました。建築家の個性・独創という概念はルネサンス建築の時代になってはじめて重要なものになりました。ブルネレスキは金銀細工師、ブラマンテは画家、ミケランジェロは彫刻家、ラファエッロは画家でしたが、彼らは中世的な建築職人とは全く異なった芸術家としての建築家、という新しい職業を確立しました。アルベルティは建築書をあらわし、多くの建築家がそれにならうことでフィレンツェ以外の町にもルネサンス建築が普及しました。「建築の歴史はルネサンス以降、いわば建築家の歴史ともなる」・・・と言われます。


フィレンツェには、まだまだ紹介したいところが一杯あります。マルコ!今度フィレンツェへ行くときは、思う存分、建築ウォッチング、楽しんで下さいね。もう少しルネサンス建築、紹介します。

  • 捨て子養育院:1421-45 ブルネレスキが古典建築を採用した最初のルネサンス建築として知られています。開放的なアーケードに古代のモチーフを使って比例の美しさを出しています。 
  •  サンタ・クローチェ教会パッツィ礼拝堂:1430頃 ブルネレスキは遠近法の研究にも取り組み、清逸なまったく新しい空間を作り出しました。 
  • ルチェライ邸:1446-51 アルベルティはコロッセオの外観になぞらえて、3種のオーダーを積み重ねる方式でデザイン、平坦な長方形の壁面を完全な比例と調和をもつものにしたのです。 ルネサンス建築の市街地建築の立面構成の基本となりました。
  • サンタ・マリア・ノヴェッラ教会:1470頃 アルベルティは色大理石の組み合わせを工夫、上層の両脇に渦巻き状様の飾りを配して上層と下層を視覚的に結びつけることを意図しました。

フィレンツェ、フェッラーラ、マントヴァ、そしてローマはルネサンス建築の宝庫ですね。「15世紀:初期ルネサンス建築は自由・軽快・華麗、16世紀:盛期ルネサンスは簡素・威厳・重厚、しかし室内はかえって多彩・豪華になりました。」と美術の教科書にありました。この後の流れは、後期ルネサンス建築⇒バロック建築になるのでしょうか?


「マニエリムスの時代」とパッラーディオ


期ルネサンス⇒盛期ルネサンスとくれば後期ルネサンスがあって当然ですが、この部分は研究者によって様々な考え方があります。盛期ルネサンスのあとは、いわゆる「マニエリムスの時代」を経て、バロック様式につながっていく、という考え方が一般的です。といってもルネサンス建築が否定された、修正された、ということではなく、西欧建築の基盤として19世紀まで連続して生きていきます。

   1520年代、都市国家の衰退とともに建築家たちはルネサンスの理念にとらわれず、さまざまな手法(マニエラ)に趣向を凝らすようになっていきます(マニエリムス)。イタリア戦争中、1527年、ローマは神聖ローマ帝国軍による激しい略奪にあい、芸術家たちは各地に逃れることになりました、これで盛期ルネサンスは終わりを告げます。この頃を代表する建造物にローマのカンピドーリオ広場があります。

  また、この時期の建築家の代表にアンドレア・パッラーディオ(1508-80)がいます。彼は故郷ヴィチェンツァを中心に作品を残しましたが、アルベルティのように建築書『建築四書』を著して理論と実践を重ねたため国際的に高い評価を得ました。石工出身の彼は古代の研究に熱心で、そこから得た豊かな知識を生かしながら当時の地主たちの要望を叶える建築を作り出しました。 (ホーム⇒州・都市⇒ヴェネト⇒ヴィチェンツァも見て下さい!)

  • カンピドーリオ広場:1538-64 ローマ ミケランジェロが全体をデザイン、幾何学模様を描く床、古代の彫像の配置などで栄光の古代ローマを再現しました。台形の広場とそこに上がる大階段を組み合わせたところはバロック建築のさきがけになりました。
  • ヴィッラ・ロトンダ:1566-69 ヴィチェンツァ郊外 パッラーディオ作の貴族の別荘 四面のすべてに同じ神殿の正面の形をした入口があります 世俗の建築に神殿のモチーフを適用して、威厳と優雅さ、落ち着きのある古典的な性格を与えています。別荘建築の代表作と言われます。
  • イル・レデントーレ教会:1578-80 ヴェネツィア パッラーディオの理想が最も生かされた教会建築。ペディメントを分割、重複させて教会に神殿風の正面をとりつけ、高さ、奥行の対称性を追求しました。