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ボローニャ


中世イタリアに誕生したコムーネ(自治都市)の代表格、古都、大学、赤い屋根、討論の町、などなどこの都市を形容する言葉は尽きません。「フェミニズム運動の町」追加します。
古い絵ハガキには「ボローニャは3つのTの町」とあります。3つのTとは、塔torre トルテッリーニtortellini  屋根Tetto です。今では「太った 学問の 赤い」=「食材に恵まれ、世界中から学生が集まる、体制に批判的」な町、と言われます

ドイツの詩人ゲーテは1786年10月16日から3日間滞在して、ボローニャを堪能しました。この37歳のドイツ人文学者はボローニャを「尊敬すべき学術の都市」と記し、斜塔について、まっすぐな塔では月並みなのでわざと斜めにした愚かな企て…とけなしていますが塔守と興味深い会話をかわしたあとアシネッリの塔に昇り、すばらしい眺望(遠くにアルプス連峰が見える)を楽しみました。ガリセンダにも昇って、斜めだけどレンガの層は水平で鉄の鎹と上質なセメントを用いればこんな建物もできる…などと感心しています。中世のボローニャは「百塔の街」 貴族の名家たちが力の誇示のため競って建築しました。

アシネッリの塔 100m  ガリセンダの塔 50m 12世紀初頭につくられました。


アシネッリの塔からの眺望:赤い屋根とアルプス連峰


大学の街の象徴:柱廊ポルティコ

ポルティコ(柱廊):11世紀に成立したボローニャ大学の講義は町中に広がるポルティコで行われていました。
町の8割以上の建物に作られていて総延長40㎞建物の上層部分を道路側に張り出させて敷地面積を広げています。
当初の柱は木製だったのが石の柱とアーチになりました。
市南西の郊外にあるマドンナ・ディ・サン・ルカ(聖母をまつる記念堂 17~18世紀建造)に至る道3.5㎞を歩くとポルティコを堪能できます 「天国と地上を結ぶ道」 


サン・ルカへのポルティコの道


マジョーレ広場

「赤い都市」ボローニャというニックネームは赤い屋根を象徴しているだけでなく、かつてイタリアにおける社会主義・共産主義の牙城だったことも象徴しています。毎週決まった曜日に市民自由参加の集会が開かれる。革新姿勢の伝統を受け継いでいます。


ボローニャの惨劇 1980.8.2

 1980年8月3日 この惨事は極右武装中核同盟NARか極左テロ組織「赤い旅団」によるもの、その他、マフィア説など、真相はいまだに断定されるに至っていません。ちなみに2年前の1978年、モーロ元首相の暗殺事件を起こしたのは「赤い旅団」だった。80名以上に及ぶ犠牲者の中に日本人の青年が1人いました。ご冥福を!爆発のあった10時25分にとまった時計はいまでも止まったままにしてあります。

中央駅から駅前のテント張りの古本ショップに立ち寄り、お手頃な三つ星ホテル街をのぞきながらインディペンデンツァ通りをまっすぐ南へ徒歩20分 市庁舎 博物館 聖堂 旧ボローニャ大学に囲まれた町の中心広場 市庁舎の外壁にある 第二次大戦末期、レジスタンス活動で犠牲となった若者たちの
写真に目が行きます 旅行者はここでボローニャはドイツ軍やファシスト党員と戦ったパルチザンの拠点であり、数々の惨劇があった事実を知ります。毎年、夏季には星空の下の映画館が開催されます 無料開放 この夏は『やがて来る人々』でした。


グッシーニ、「ボローニャ」を歌う

ボローニャ市民(ボロネーゼ)の誇るシンガーソングライター、イタリアンポップスの王と言えば、ルーチョ・ダッラですがフランチェスコ・グッチーニも1981作品「ボローニャ」で「ボローニャは腰の柔らかな奇妙な女性…」と歌い、この街は知性にあふれ、心地よくもてなしてくれ、くつろげると語っています。




チネテカ:イタリア映画文化の拠点


タリアで映画関連の展示資料はトリノの映画博物館が有名ですが、ここはフィルムライブラリー(フィルムの修復・保存と書籍収集)で研究者が閲覧できる場所です。ボローニャ大学の学生さんがよく利用しています。館長のアンナさんは、言語理解が追いつかない私マルコにスローペースでお話下さいました。ライブラリーだけでなく映画の発信も活動の一環だとか…日本人旅行者の急な申し出に気軽に応じて頂き感激しました。毎週土曜日、市民マーケットとして中庭が開放され市民たちの交流の場になります。
4月25日 イタリア解放記念日 隣接する名画座で「女性パルチザン部隊ドキュメンタリー」『無防備都市』の連続上映会がありました。80代,90代になっている元女性パルチザンの方々のお話、映像終了後、ご子弟お孫さんたちが多い観客がパルチザンの歌を合唱しました、大戦末期、ナチスドイツ、ファシスト、パルチザンの錯綜した時期、生き残ることがいかに大変なことであったか、日本人の私も涙が出ました。上映後の意見交換会の中で貴重な証言をまとめた編集者たちへの謝辞だけでなく近隣の学校での上映の機会を持ってほしいという声もありました。連続上映されたネオレアリズモの最高傑作『無防備都市』はパルチザンの目になっているので辛かった。


懐かしい60年代のボローニャ市民 チネテカ提供