ラファエロ 1483-1520

画家 ウルビーノ出身 ペルジーノの弟子 1504年以降はフィレンツェでダ・ヴィンチの影響を受け、08年以降はローマでミケランジェロの影響を受ける。「大公の聖母」「ひわの聖母」「美しき女庭師」など古典的調和のとれた甘美な聖母の画家として高名。ローマ教皇からはヴァチカン宮殿の壁画を依頼され、「アテナイの学堂」1509-11など盛期ルネサンス美術の傑作を残す。



ルイジ・コメンチーニ   1913-2007

北イタリアのサロに生まれる。イタリア・フィルム・ライブラリーの基礎を築いた。雑誌などに映画批評を執筆していたが、戦後は子供をテーマとした短編を多く手がけた。その後、『パンと恋と夢』53が大ヒット、「バラ色のネオ・レアリズモ」と称される。貧しいなかでの庶民独特の楽天主義を軽妙に描き、人気を得た。『ブーベの恋人』は甘くセンチメンタルな主題曲、カルディナーレの美しさとあいまって日本でもヒットした。『天使の詩』67は子供がテーマの佳作で、『ミラノの恋人』75は公害問題と南北問題を描いた。

ルキノ・ヴィスコンティ 1906-76

ミラノの名門ヴィスコンティ家出身の伯爵 幼少期より芸術に親しみ、映画への関心を深めた。ジャン・ルノワールの助手を務め、デビュー作『郵便配達は二度ベルを鳴らす』42はネオ・レアリズモの先駆的作品として絶賛された。『揺れる大地』48は俳優を使わず、地元の人々のシチリア方言を生かした大胆な手法は高く評価されている。『夏の嵐』54 『若者のすべて』60『山猫』63など重厚なドラマが多い。『地獄に堕ちた勇者ども』69、『ベニスに死す』71『ルートヴィヒ』はドイツ3部作と呼ばれる。



レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452-1519

画家 フィレンツェ近郊のヴィンチ村出身。ヴェロッキオの弟子。1482年にフィレンツェからミラノに移り、君主ルドヴィゴ・スフォルツァに仕え、「岩窟の聖母」1484頃、「最後の晩餐」1495-97などを制作。1500年にフィレンツェに戻り、「モナ・リザ」1503-05を制作。ミラノ、ローマを経て、16年にフランス王フランソワ1世に招かれ

最晩年をアンボワーズで過ごす。音楽から舞台演出まで手掛ける「万能の天才」で、残された手稿からは解剖学から天文学まで森羅万象に科学的な眼を向けていたことがわかる。

レオ10世  1475-1521

ローマ教皇 位1513-21 メディチ家全盛期のフィレンツェで生まれる ロレンツォ=デ=メディチの次男 1494年、フィレンツェからメディチ家が追放されると亡命、 教皇軍を指揮してフィレンツェに返り咲く。1513年教皇ユリウス2世の後継教皇となる。サン=ピエトロ大聖堂の修築を行い、美術家のパトロンとなり、ルネサンス文芸の中心ともなった。しかし、財政破綻により免罪符の販売みとめたことがルターの宗教改革を惹起し、ルターを破門した。優れた政治手腕は認められるが信仰の指導者とはなりえなかった。



レピドゥス 前90?-前13

ローマ共和政末期の政治家 カエサル派の政治家で、カエサル暗殺後、アントニウスを支持した。そのためアントニウスの画策でカエサルが就いていた大神祇官職を得た。前43年には、対立していたオクタウィアヌスとアントニウスを仲介し自らを含む第二次三頭政治を実現させたが、前37年にはオクタウィアヌスより三頭政治から外され、公的生活から引退させられた。しかし、大神祇官の職は

死ぬまで保持した。

レオンカヴァッロ 1857-1919

作曲家 ナポリで判事の子に生まれ、幼少からピアノを習い、ナポリ音楽院を18歳で卒業。オペラ作家を志し、ボローニャ大学で文学を聴講しながら、初作《チャッタートン》を完成したが上演寸前に興行師に逃げられ借財を負った。その後は楽士として諸国を巡り、その間、ヴァーグナーから激励を受ける。マスカーニの《カヴァレッリア・ルスティカーナ》の成功に刺激され、それと同傾向のヴェリズモ・オペラ《道化師》を作曲、1892年、ミラノで上演され圧倒的成功を収め一躍名を上げた。しかしその後は歌姫を主人公とする《ザザ》1900がわずかに認められた程度だった。1906年アメリカに渡り、作曲・指揮を続けた。 主要作品:《道化師》1892:《メディチ家》1893:《ザザ》1900:《ジプシー》1912 



レスピーギ 1879-1936

作曲家 父からピアノとヴァイオリンを学び、1891年ボローニャ音楽学校に入学。1900年ペテルブルク王立歌劇場第1ヴィオラ奏者となり、リムスキー・コルサコフとブルッフの2人に作曲の指導を受けた。その後、ボローニャに戻りオペラ《エンツォ王》1905などで作曲家としての名を広めた。ムジェリーニ五重奏団への参加、ベルリンでの歌唱学校のピアニスト、などの活動を経て1913年ローマ:サンタ・チェチーリア音楽院で作曲を教えた。彼は演奏旅行以外は死ぬまでローマにとどまり、永遠の都を愛した。レスピーギは20世紀初めのイタリアにオペラ以外の器楽曲に新しい息吹を吹き込んだ人物として忘れてはならない。 創作期の頂点はローマ三部作《ローマの噴水》《ローマの松》《ローマの祭り》である。



ロッサノ・ブラッツィ 1917-1994

ボローニャに生まれる フィレンツェ大学で法律を専攻、在学中から舞台やラジオで活躍 アメリカ映画の声優を経て39年映画界入り 49年米映画「若草物語」でデビュー、以後、国際的スターとして活躍。40年リディア・ベルトリアと結婚。裸足の伯爵夫人54 愛の泉54 旅情55

南太平洋58 恋愛専科62 ジャワの東68 

 

ロッシーニ 1792-1868

作曲家  19世紀前半のイタリア・オペラの代表的作曲家 ジョアッキーノはペーザロで金管楽器奏者をしていた父とソプラノ歌手を母にもつ。1804年、ロッシーニ一家はボローニャに定住、ジョアッキーノはハープシコードと歌の勉強を始めた。1806年、音楽学校に入学、チェロ・ピアノ・作曲を学んだ。彼が早くから劇場に進出できたのは、父母がこの世界に知己をもっていたことによる。1816年ローマ・アルジェンティーナ劇場で初演された《セビリャの理髪師》で彼の名声は確立した。1820年代にはパリ・イタリア座のために《ギョーム・テル》など作品を創った。この頃から劇場のために作曲することはなくなるが、宗教音楽や室内楽の作品は書き続けた。1845年、別居していた妻イザベッラが死亡すると翌年、オランプ・ペリシエと再婚した。1868年、パリ郊外の別荘で永眠、遺体は後年、フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂に移された。主要作品:《セビリャの理髪師》1816:《チェネレントラ》1817:《泥棒かささぎ》1817:《湖上の美人》1819:《セミラーミデ》1823:《コリントの包囲》1826:《ギョーム・テル》1829