サヴォナローラ 1492~98

修道士 フェラーラ生まれ 医学を志すもボローニャのドミニコ会修道院に入る1474 フィレンツェのサン・マルコ修道院 1482

に移る メディチ家によるルネサンスの学芸的、享楽的風潮を批判、弁舌巧みに人々の信仰心の薄れを解き、人気者

フィレンツェの独裁者となる 市民から没収した装飾品・絵画・書物を市庁舎の前で焼却 市民の反発をかい

教皇アレクサンデル6世に破門されると次第に孤立 市民によって絞首刑後、火刑されることになりました。

サロメ



ジェンティーレ(ジョヴァンニ) 1875-1944

哲学者 ファシズム政治家 シチリア トラーパニ県 カステルベトラーノ生まれ   ピサ大学に学びクローチェと共に哲学雑誌「批評」を発刊1903  パレルモ、ピサ、ローマの各大学で哲学教授を歴任 その間、ムッソリーニ内閣で文相を務めファシズムを支持する知識人宣言の起草者となりクローチェと対立した。1922年から24年にファシスト政府の文相として教育制度の改革を遂行。初等教育への宗教導入・ラテン語教育の拡充、学習への国家試験などが規定された。《イタリア百科事典》を編集。その1932年版ではファシズムを規定して、以下のように記述する。「ファシズムでは、国家が自らの原理や価値観でもって個々人の意思や思想を律し、型にはめるための権威であるだけでなく、積極的に個々人の意思や思想を広く説き伏せていく強制力をもった機構となる。…ファシストはすべての個人及びあらゆる集団を絶対的な存在である国家のもとに統合する」  この項目は、《ファシストの原理》と呼ばれた。44年、フィレンツェ自宅前で反ファシストに暗殺される 68歳。

ジョリッティ(ジョヴァンニ) 1842-1928

自由主義 政治家 首相  クーネオ県のモンドヴィ生まれでブルジョワ階級の出身である。20世紀初頭に幾度か首相をつとめ、イタリアの工業化などに尽力した。

第一次世界大戦後の1920年に再び首相になったとき、イタリアは深刻な不況下におかれ、労働運動や貧農の暴動などが激化していた。彼は労働運動の穏健派と交渉を重ね、事態を収拾させた。また、フィウーメ問題をめぐり台頭していた国内の対フィウーメ強硬派を抑えることにも成功した。しかし、その中でベニート・ムッソリーニ力を軽視し、彼と結んで左右両勢力の弱体化を図ったことは功を奏せず、ファシズムの台頭を許した。いわゆる「ジョリッティ時代」には男子普通選挙が導入され、1913年の総選挙では社会党やカトリックも議会に進出した。中道的な自由主義者として

各党派と妥協を重ね多数派を自らにつなぎとめるために個別的な利益を優先させ恩恵や特権を提供した。この党派を超えた、利権誘導による議会内多数派工作トランスフォルミズモによって、ほぼ10年間にわたり政権の座にとどまった。イタリア人の生活の向上は国民所得の50%以上の増加に裏付けられていた。衛生基準や食糧事情の改善により平均寿命も上昇した。(1881年35歳⇒1911年46歳)電話・鉄道の国有化、南部対策特別法、初等教育法、など多くの分野で発展が見られた。



ジョット 1267?-1337

画家 フィレンツェ近郊の出身 チマブーエの弟子 「ジョットはチマブーエの名声を凌駕した」とダンテが『神曲』で絶賛する通り、その劇的な写実表現はルネサンス絵画の先駆をなす。パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂、フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂、アッシジのサン・フランチェスコ聖堂にフレスコ画連作を残す。代表作は「小鳥に説教する聖フランチェスコ」

 

ジーナ・ロロブリジダ 1927

南イタリア チョチャリア地方スビアコ生まれ。生来の美しさから近所でも評判をよび、声もよかったことから歌手をめざした。だが、戦争が始まると一家の生活は苦しく、音楽学校に行けず、ローマの美術学校に入った。その頃、プロデューサーの目にとまり、46-47年、学業のかたわらで端役で映画出演。46年、準ミス・ラツィオ、ミス・イタリア第三位になった。48年マリオ・コスタ監督 オペラ映画「愛の妙薬」で本格的な映画出演をして以来、ジェラール・フィリップ共演「花咲ける騎士道」「夜ごとの美女」51の二作によって名声は不動のものとなった。49年医師と結婚、一児を生んだが71年離婚。  主な作品:白い国境線49、パンと恋と夢53,空中ぶらんこ、ノートルダムのせむし男56、ソロモンとシバの女王59、九月になれば61、波止場、わらの女62 お熱い出来事64、殺しを呼ぶ卵67 想い出よ今晩は68



ジョベルティ 1801-52

政治家 思想家 トリノ出身 サルデーニャ王カルロ・アルベルトに仕えたが追放され、亡命先で著作に専念。『イタリア人の道徳的・文化的優越』1843を著し、イタリア統一の方式としてローマ教皇を中心とするイタリア君主連合を主張。穏健な平和的方式として貴族や教会の支持を得る。マッツィーニの革命的共和的統一方式に対置されるが、いずれも非現実的だった。



ステファニア・サンドレッリ 1944

アドリア海に面した避暑地ビアレッジョ生まれ 父はカフェつきの小ホテル経営者。商業学校を出た後、家業のカフェテリアを手伝っていたが、バレリーナになるためバレエ学校に入った。59年、まだ15歳だったが、ビアレッジョ水着コンテストに出場、第二位に選ばれた。これがきっかけとなって、モデルとなり、ファッション雑誌の表紙を飾った。60年映画入り、第三作、ピエトロ・ジェルミ監督「イタリア式離婚狂騒曲」の準主役アンジェラ役で注目された。その後、ベルトルッチ監督の「暗殺の森」70での好演が目立つ。素朴で抒情的なムードを持つ女優。65年、結婚せずに一子を生みジャーナリズムを騒がせた。

主な作品:誘惑されて棄てられて63、タヒチの男63、タランチュラ71、アルフレードアルフレード72、



スラ 前138-前78

ローマ共和政末期の政治家。元老院の名門家系に生まれ、マリウスの副官としてユグルタ戦争やゲルマン人との戦争で活躍し、同盟市戦争でも武勲を挙げた。前88年にコンスルとなりミトリダテス戦争の指揮権を

元老院より委ねられたが、かねてより対立していたマリウス派によりその指揮権を剥奪されたことからローマに進軍。マリウス派を追放した後、ミトリダテス戦争に向かった。戦争中、再びローマではマリウス派が勢力を盛り返したため、ミトリダテスと寛大な条件で講和を結び、ローマに帰還。帰還後、マリウス派を激しく迫害した。また、ディクタトルとなり、護民官の権限を縮小するなど元老院の権威回復を目指した多くの改革をおこなった。79年に自発的にディクタトル職を辞しカンパニアに隠棲。間もなく没した。

スキピオ 前235?-前183

ローマ共和政中期の政治家。第二次ポエニ戦争で活躍。前209年にカルタゴのローマ侵攻の拠点であったカルタゴ・ノヴァを奪取し、ハンニバルの後方を脅かした。また前204年以後は、アフリカに侵攻し、ザマの戦いでハンニバルを破った。前190年には弟ルキウスの同僚としてマケドニア戦争に赴くが現地で病にかかる。戦後はローマで政敵の弾劾を受け失意のうちに政界を去った。アフリカヌスの異名をとる。息子の養子は小スキピオと称され、第三次ポエニ戦争に従軍し、カルタゴの滅亡を目にした。

 



セネカ 前138-前78

ローマ共和政末期の政治家。元老院の名門家系に生まれ、マリウスの副官としてユグルタ戦争やゲルマン人との戦争で活躍し、同盟市戦争でも武勲を挙げた。前88年にコンスルとなりミトリダテス戦争の指揮権を元老院より委ねられたが、かねてより対立していたマリウス派によりその指揮権を剥奪されたことからローマに進軍。マリウス派を追放した後、ミトリダテス戦争に向かった。戦争中、再びローマではマリウス派が勢力を盛り返したため、ミトリダテスと寛大な条件で講和を結び、ローマに帰還。帰還後、マリウス派を激しく迫害した。また、ディクタトルとなり、護民官の権限を縮小するなど元老院の権威回復を目指した多くの改革をおこなった。79年に自発的にディクタトル職を辞しカンパニアに隠棲。間もなく没した。

セヴェルス(セプティミウス)145-211 在位:193-211

ローマ皇帝 北アフリカ出身 属州上部パンノニア(現ハンガリー)の総督職にあったとき、麾下の軍隊によって皇帝に推薦され、同時期に帝位に上っていた対立皇帝を倒し、197年に単独皇帝となった。敵対する元老院議員を数多く処刑し、兵士を優遇する軍制改革をこなったため、元首政崩壊への道を開いた変革的皇帝とみなされている。パルティアに遠征し、新属州メソポタミアを設立。211年、遠征先のブリテン島で没した。後をカラカラとゲタの2人の息子が継いだ。



ソフィア・ローレン 1934

ローマ生まれ 両親は正式に結婚しておらず、妹マリアが生まれたときに父は家出、母の故郷ナポリ郊外ポッツォーリで育った。本名はソフィア・シコローネといい、デビュー当時は本名で出演していた。第二次大戦中の少女時代は母と妹の3人で空腹と空襲におののく日々をおくった。50年ナポリで行われた海の女王コンテストで第二位に選ばれ映画入りの道が開けた。ロケで撮影にきたジョルジョ・ビアンキ監督に売り込みをかけ「海の魂」に端役で出演。監督のすすめで母子はローマに移った。チネチッタ撮影所で数本の作品に出演、米映画「クオ・ヴァディス」出演の話があったが英語ができずエキストラにまわされる。プロデューサー、カルロ・ポンティはシルヴァーナ・マンガーノ主演「アンナ」に端役ながら出演のチャンスを与え、名前をソフィア・ローレンと改めさせた。ポンティとは57年メキシコで結婚したが、彼が先妻との結婚を解消しておらず、重婚罪に訴えられてこの結婚は不成立、66年パリで正式に結婚が成立。68年長男カルロ・ポンティ・ジュニア(「ひまわり」に出演)誕生、73年次男誕生。ナポリの太陽のように明るい野性味あふれるヴァイタリティでスクリーンを圧し、イタリアを代表する大女優となった。 主な作品:ナポリの饗宴54、島の女、誇りと情熱57、ふたりの女、エル・シド61など多数