アッピア街道

前312年ローマ~カプア~ブリンディシウム570㎞を結ぶ軍道として建設、ローマ=マイル(約1.5㎞)ごとにマイル=ストーンが置かれました。道幅は2台の馬車が行違える4m、中央部が膨らむように石がしかれているので勾配がついてスムースに路肩に排水できました。カラカラ浴場から少し南にあるサン・セバスティアーノ門を通りぬけ、クオ・ヴァディス教会まで行けば、もうそこが街道の起点です。アッピウスが造った街道ヴィアをヴィア・アッピアと呼ぶのは街道ヴィアが女性名詞なので修飾する人名も女性形のアッピアになるからです。領土拡大とともに道は伸び続け総延長8万5千キロ「すべての道はローマに通ず」。高度な土木技術の産物で千数百年経っても現役です。砂利・石・粘土質の土・切り石を敷き詰めて堅固なものにできたのは高度な土木技術の賜物です。



アビシニア戦争 1895

イタリアによるエチオピア侵略戦争。19世紀後半、帝国主義列強のアフリカ分割に加わったイタリアは、東アフリカに植民地建設を企てソマリランド1889、エリトリア1890を得、次にエチオピアをねらって1895年に侵略戦争を起こすも、翌年3月アドワの戦いで完敗。エチオピアは独立を保つ。エチオピア併合はのちのムッソリーニの課題として残される。

アヴィニヨン教皇庁

1309年、フランス出身の教皇クレメンス5世が政情不安定なローマを離れ、南フランスのアヴィニヨンに移住。ヴィエンヌ公会議では帰還を決め得ず、以後約70年間7人の教皇がこの地で立ったが、その間教皇庁に対するフランス王の影響力が強まり、イスラエルの民のバビロン捕囚にたとえて「教皇のバビロン捕囚」と呼ばれた。教皇庁の行財政・司法制度は整備され、中央集権化が進んだ。77年、グレゴリウス11世(位:1370-78)によるローマ帰還が実現するが、翌年にはローマとアヴィニヨンに2人の教皇が並びたち、シスマが始まった。



アナニ事件

フランス王フィリップ4世と教皇ボニファティウス8世は聖職者への課税問題などをめぐり対立。1302年、王はフランス最初の三部会を召集して教皇を批難し、同年教皇は教皇権の王権に対する優位性をうたった教書を発した。こうしたなか、王の側近ギヨーム・ド・ノガレは1303年9月、イタリアのアナーニで教皇を襲撃し、監禁。教皇は3日後に救出されるが間もなく死去。教皇権の普遍的権威失墜を示す事件となった。



イタリア政策

皇帝政策ともいう。オットー朝からシュタウフェン朝のドイツ王・神聖ローマ皇帝がおこなったイタリア支配政策。オットー1世がイタリアを支配し、ローマで教皇から帝冠を授けられたことに始まる。その後、歴代のドイツ王はオットーにならってローマでの皇帝戴冠とイタリア支配につとめた。とりわけシュタウフェン朝がこれを強力に進めた。

 

イムニテート

ローマ帝国において貢租および賦役などの公的負担からの免除を意味する言葉であったが、フランク王国においては、主に教会や修道院の所領に国王役人が立ち入り、裁判権を行使し、貢租を徴収することからの免除を意味する内容になった。免除は国王から付与される特権という形式を取り、国王による教会政策の手段としても用いられた。11世紀になって教会改革が始まると、世俗権力による教会支配として非難の対象ともなった。



イリュリクム

ローマ帝国時代のドナウ川流域の諸属州を指す総称。元首政期においてはノリクム、パンノニア、ダルマティア、ダキアの諸属州を包括する徴税区の名称としても用いられた。また、専制君主政期にはパンノニア、モエシア、ダキア管区を包括する統管区の名称としても使用された。この地域はドナウ川を挟んで異民族と接する軍事的要衝で多くの軍隊が駐屯した。軍人皇帝時代以降、多くのローマ皇帝を輩出した地域でもある。

イタリア・トルコ戦争 1911-12

イタリアがトルコ領トリポリ・キレナイカの領有をねらって起こした帝国主義的侵略戦争。伊土戦争ともいう。ヨーロッパ列強のアフリカ分割の1つとして、英仏露などの承認ないし了解を得て行われた。イタリアは征服地を併合し、リビアと改称。イタリアにとってリビア併合は経済的意義より軍事的意義のほうが大きかった。リビア独立は1951年。



ヴァティカン

ローマ教皇庁の所在地 ローマの起源とされる7つの丘の一つでペテロの殉教地とされ、4世紀初頭にコンスタンティヌス1世が聖ペテロ教会を建設した。この教会はルネサンス期におおくの優れた芸術家によって改築され、現在の形となった。1929年ラテラノ条約以降、ローマ教皇を首長とするヴァティカン市国として独立している。

 

 


エトルリア人

ローマ・ヴィラジュリア国立(エトルリア)博物館で一番人気のエトルリア人夫婦。彼らの言語はいまだに未解読!謎多き民族(^_-)-ローマが覇権を握る以前にイタリア半島で強い勢力を持っていた民族の一つ。民族や言語系統は不明で東方起源説と土着人説が古代より対立しているが、現在大勢は後者の説に傾く。彼らはアルノ川とティベル川に挟まれた中部イタリアを本拠地とし、前500年頃には最盛期を迎えて北はポー川流域から南はカンパニアまでその勢力を伸ばした。前5世紀以後、北からはケルト人、南方ではローマやギリシアの勢力の攻撃を受け衰退。前3世紀にはローマの勢力下に入り、次第に固有の言語や文化は消滅していった。金属細工に巧みで、その墳墓には日常生活を描いた華麗な彩色壁画を残した。

ヴァンダル王国

東ゲルマンのヴァンダル族は中部ヨーロッパのシュレジエンにいた集団とカルパティア山脈にいた集団から構成され、5世紀初めライン川を渡りローマ帝国に入ったのちイベリア半島に進出した。429年ガイセリックに率いられてジブラルタル海峡を渡り、北アフリカにカルタゴを都とする王国を形成した。地中海にも進出してローマ市を略奪し、東ローマの艦隊を撃破した。国内ではカトリックを圧迫した。534年東ローマ帝国に滅ぼされた。

 


エフェソス公会議

ネストリウス問題解決のために東ローマ皇帝テオドシウス2世が召集した第3回公会議。コンスタンティノープル総大主教ネストリウスは聖母マリアの「神の母」との呼称を

否定し、「キリストの母」と呼ぶべきと主張。これはキリストの神性と人性を分離する主張でありアレクサンドリア大司教キュリコスがこれを批判した。この公会議で「神の母」との呼称が承認されネストリウス説は異端とされた。



エチオピア侵攻 1935-36

イタリアによるエチオピア侵略戦争。ムッソリーニは世界恐慌による国民の不満をそらすため、35年エチオピアに大軍を上陸させ、翌年首都アディス・アベバを占領してエチオピアを併合。イタリア王がエチオピア皇帝を兼ねる。国際連盟は経済制裁を実施できず、無力をさらす。国際的に孤立したイタリアはドイツに急接近する。