タブッキ 1943-2012

作家 アントニオ・タブッキはピサで誕生。1960年代フランスのソルボンヌに通ううちにポルトガル人作家フェルナンド・ペソアの作品と出会いポルトガルという国に愛着を募らせポルトガル語を学んだ。1970年代にはボローニャでその教師となり、のちに学者としてシエナ大学でポルトガル語と文学の教鞭をとった。晩年はリスボンで暮らし、故郷からは離れるばかりだった。代表作『インド夜想曲1984』『イタリア広場1975』『レクイエム1992』『供述によるとペレイは・・・1994』など。サラザール独裁政権下のリスボンを舞台に描い『供述・・』はイタリアのベルルスコーニ首相への批判と解釈された。

 



ダニエラ・ビアンキ 1942-

女優 1942.1.31ローマ生まれ 幼いころバレーレッスンに通った 60年 ミスユニヴァーコンテスト ミス・イタリア代表2位の栄冠を得た その後、モデルとなり ファッション・デザイナーに引っ張りだことなった。 63年007危機一発 テレビ「ドクター・キルデア」3つのエピソードに特別ゲスト出演

67 主な作品:アルデンヌの戦い

ダンテ



チレーア 1866-1950

作曲家 ナポリ音楽院で学び、在学中からオペラを作曲、第1作は《ジーナ》1889。1902年、ミラノ:リリコ劇場で初演された《アドリアーナ・ルクヴルール》でヴェリズモ・オペラ作曲家としての名声を得た。

ほかに《ティルダ》1892:《アルルの女》1897:《グローリア》1907を作曲。1894年から教職に就き、パレルモ音楽院やナポリ音楽院で院長をつとめた。



デ・ガスペリ  1881-1954

政治家 キリスト教民主党 首相 オーストリア=ハンガリー帝国領チロル地方(後のイタリア共和国トレンティーノ)に生まれる。第一次世界大戦中はウィーンに滞在し、戦争に対しては中立の立場を保った。デ・ガスペリは戦後自らの故郷がイタリア領となったことにより、イタリアの市民権を得た。1924年、反ファシスト派の代表となって1927年3月逮捕・投獄された。釈放後は1943年7月のファシズム体制崩壊までの14年間、バチカン図書館で働いた。第二次世界大戦中、デ・ガスペリは大衆党のイデオロギーを引き継ぐ政党「キリスト教民主党」の創設に参加した。1945年から1953年にかけてキリスト教民主党を中心とした8期連続の政権で首相を務めた。大戦前にはイタリアの敵国オーストリア領出身であるため、敵陣営から「裏切り者」と罵倒された。7年8か月という在任期間は、連続したものとしては戦後イタリアで最長となっている。デ・ガスペリ政権は通貨リラの安定化、インフレ抑制を目標とし、社会経済改革として農村部の農地改革、都市部の住宅供給問題、南部開発に取り組んだ。1949年の北大西洋条約機構加盟、そしてアメリカ合衆国との同盟締結はマーシャル・プランによるイタリア経済の復興につながっていった。また、1952年に発足することとなる欧州石炭鉄鋼共同体の創設をうたったシューマンの構想を支持した。



ティベリウス 前42-後37 (位14-37)

ローマ皇帝 初代皇帝アウグストゥスの養子 母リヴィアは子供だった彼を連れてアウグストゥスと結婚した。ティベリウスは学問を修めギリシア語に精通し、天文学にも励んだ。軍を率いて善戦し、兵士たちから敬慕された。養父アウグストゥスが死んだ時、55歳だった。元老院に出席して帝位を辞退、共和制復活を要望、元老院はそれを芝居だと思った。議員たちはアウグストゥスにしたように、彼の名を1年のどれかの月の名称にする許可を求めたが「そんなことをして、13代目の皇帝が即位する時にはどうするおつもりか」と答えた。ティベリウスは平和を守り、行政を改善し、国庫を豊かにしたが、晩年、親衛隊長に権限を与えところから政治の腐敗がすすみ、後継者選びには失敗した。

デ・ミータ 1928-2022(94歳没)

カンパニア州ヌスコに生まれる 政治家 1988首相就任、キリスト教民主党のトップ(党書記)が首相を兼ねるという権力集中となった。この点については党内からも批判はあったが政策課題(財政・汚職・治安問題など)に取り組んだ。デ・ミータは内閣や公企業のポストに自らの出身地カンパーニア州アヴェリーノ県の出身者を多く登用して脇を固めた。反対派から「アヴェリーノのクラン(一味)」と呼ばれた。外交面ではペレストロイカ推進中のソ連を訪問して主導権を確立しようとした。しかし、深刻化する経済危機とクラクシの社会党やキリスト教民主党最有力者アンドレオッティによって翻弄され、1989年5月、辞職を表明した。



ドミティアヌス 51-96 (位81-96)

ローマ皇帝 兄のティトゥスを殺害した容疑がある。常軌を逸した移り気と残忍さで記憶される。完全に憎悪と恐怖の的となった。皇帝としてはまったく力量不足でありながら、国政のあらゆる側面に干渉したがった。もっとも被害甚大だったのは経済への介入で、即位直後に基本貨幣デナリウス硬貨の銀含入量を12%引き上げたがそれを維持することは全く不可能だった。帝国の経済は停止状態に陥り、彼は85年には通貨価値を引き下げた。見世物の気前のよい提供者としては人気を博した。とくに模擬戦争を愛好し歩兵と騎兵のあいだで生死を賭けた戦いを演出したり、闘技場を水で満たして模擬海戦をさせたりした。治世が長引き、敵が増えるにしたがって皇帝の被害妄想はより激しくなっていった。ドミティアヌスは常軌を逸するほど用心深かったが、自分自身でまいた種によって暗殺を実現させた。彼の敵はいずれ皇帝によって破滅させられるより、自分が皇帝を破滅させるしかないと考えた。皇帝は絶命するまで少なくとも7回は刺されたという。ドミティアヌスのような皇帝があと1代でも続けば、ローマ帝国の存続は危うかった、と言われる。

トラヤヌス 53-117 (位98-117)

ローマ皇帝 五賢帝の1人 スペイン生まれ、軍人として東方およびゲルマニアで活躍した。コンスル(統領)をへてネルウァ帝の養子となり、その翌年に即位した。性格は寛容、質素で内政では救貧制度の拡充、道路・運河・港湾などの公共建設、フォロ=トラヤヌスの造営などを行った。属州統治にも人材を派遣したが、キリスト教は弾圧した。対外政策ではアウグストゥス以来の守勢方針を一転して積極策に改め、ドナウ川下流北岸のダキア地方を属州とした。さらにメソポタミアに進みパルティアの首都クテシフォンを占領して帝国の領土は史上最大となった。ローマへの帰還、キリキア(小アジア南東の沿岸部)で病没



トリアッティ 1893-1964

政治家 イタリア共産党指導者 ジェノバの下級官吏の家庭に生まれる。その後給費生としてトリノ大学に進学、在学中にアントニオ・グラムシと親交を結ぶ。1921年にイタリア共産党に参加、1926年にグラムシがファシスト政権によって投獄された後、党の最高指導者となった。この間ムッソリーニ政権下でフランス、スペイン、ソビエト連邦などを放浪し、1934年にソ連に亡命。また1936年から1939年にかけて、コミンテルン代表としてスペイン内戦に関与した。イタリアが第二次世界大戦に参戦した後はソ連を通じてパルチザンへの支援を行った。そのため、トリアッティは「スターリンのイタリア人」と呼ばれた。彼の下でイタリア共産党は西ヨーロッパ各国の共産党に影響を与え、そこから生まれた現実的な政策を押し出した共産主義の潮流は、1970年代、「ユーロコミュニズム」と呼ばれて多くの支持を得た。1964年、フルシチョフ失脚後のソ連を訪問した際に、保養地のヤルタで休暇中に脳内出血で急死した。ロシア中部の自動車の町「トリヤッチ」は彼の支援でフィアットとの合弁企業アフトヴァースが成立した場所で、死後の1968年にソ連政府がトリアッティの功績を記念して改名した。

ドニゼッティ 1797-1848

作曲家 ロンバルディア州、織物の町ベルガモの貧しい家庭の5子として誕生 9歳で同地の慈善音楽学校 18歳ボローニャ音楽院に入るも親の家計を助けるためオーストリア軍に入隊しヴェネツィアに勤務。1823年、作曲に専念するため除隊 驚異的なスピードで量産、《キアーラとセラフィーナ》でスカラ座にもデビューした。1828年ローマの中流家庭の娘ヴィルジニアと結婚、1832年《愛の妙薬》以降、成功作が続いた。尊敬する先輩ロッシーニによってベッリーニと競わされ、1835年のパリ:イタリア座での新作合戦ではベッリーニの《清教徒》に軍配があがった。ナポリのサン・カルロ劇場のために作曲した《ランメルモールのルチア》が成功をおさめ、劇場の経営も持ち直した。ナポリ王立音楽院校長など公的には恵まれたが、私生活では両親、3児、愛妻を相次いで亡くし、生活は荒れ、のちに精神の錯乱を起こした。彼のオペラは劇と音楽が融合した独特な魅力があり、社会的苦悩を描いてヴェルディの先駆者となった。1848年、ベルガモに帰郷、51歳で世を去った。主要作品:《追放されたローマ人》1828:《アンナ・ボレーナ》1830:《愛の妙薬》1832:《マリア・ストゥアルダ》1834:

《ランメルモールのルチア》1835:《連隊の娘》1840