イタリアほど町の広場、駅前、街角に彫刻がある国は少ない。古代から近代まで彫刻が造られた年代は様々でも、市民生活の中心的な場所に、象徴的な意味をもって置かれている。イタリア彫刻の歴史を振り返りながら、旅行中、必ず出会う彫刻、道を急いで、つい見逃してしまう彫刻、絵画に比べてあまり目立たない彫刻たちについて知識を少し増やしたいと思います。(上の浮彫はピエモンテ州スーザの街角でみかけたもの)


参考図書:ルネサンスの彫刻(星雲社)中世彫刻の世界(岩波) 世界の彫刻1000の偉業(二宮社) ルネサンスの彫刻(ブリュッケ) バロック美術の巨星ベルニーニ(吉川弘文館) 

     西洋美術の歴史(中央公論新社) 美術の歴史(創元社)

古代ローマの彫刻


3つの要素

  1. ギリシア彫刻に対する憧憬と模倣
  2. 死者のデスマスクを作製し、これを保存する習慣から始まった肖像彫刻
  3. 歴史の物語的記録として作製された浮彫彫刻(帝政末期の石棺浮彫も含む)

ローマが勢力拡大した前二世紀以降、その軍事的征服によってギリシアやマケドニアから夥しい量の彫像・絵画などの美術品が持ち込まれた。エトルリアや南イタリアのギリシア都市とは桁外れに豪華で洗練された文化が流入し、ローマ人を圧倒した。ギリシアのアイトリア同盟を破った時には「掠奪品のブロンズ像は285体、大理石像は250体にのぼった」(リウィウス『ローマ建国史』)、マケドニアを滅ぼした時には、「戦利品としての彫像や絵画や巨像は、250頭の馬で運ばれ、その凱旋行進は三日間に及んだ」(プルタルコス英雄伝『アエミリウス・パウルス伝』) 当然、ローマ人はギリシアやヘレニズムの美術を貪欲に吸収するようになり、何人ものギリシア人芸術家たちが富裕なローマ人に呼ばれてイタリア半島にやってきた。彫刻家の中には強制連行された者、工房ごと移住した者、様々いたが、最初、彼らは交易で異国人が多く訪れるテヴェレ川沿いの地区で仕事をした。前二世紀のギリシア人彫刻家のローマ出土作品は主にカピトリーニ博物館で見ることが出来る。豊かにうねる髪のボリュームのある顔をもつ「冠をかぶった女性頭部」(ローマ:カピトリーニ博物館)はその一例。詩人ホラティウスの名言にあるように、「征服されたギリシア人は(芸術で)猛きローマを征服した」のである。


ローマに移動するギリシア人彫刻家がいる一方で、ギリシアからローマへと運ばれた美術品も多かった。戦利品のなかでも価値の高いものは私物化せず公共の場に捧げられたため、個人が自邸を飾るための美術作品は輸入によるものが多かった。ローマの代理人や美術商が購入した美術品は船でイタリア半島へと運ばれた。ローマ人コレクター向きのブロンズ像や大理石像を大量に積んだ古代ギリシアの商船が何隻も見つかっている。積み荷の中で注目を集めたのは神像であり、オデュッセウスを主題とした群像たちだった。イタリア半島に残る有名な彫刻群『スキュラ群像』はローマ-ナポリ間にあるスペルロンガの別荘・洞窟から出土している。洞窟内に残る彫像はトロイア戦争の英雄たちで、その中でも中央に置かれていた『スキュラ群像』が他を圧倒していた。・・洞窟は西暦26年、皇帝ティベリウスの宴会中に崩壊、1957年発見時には破損部分が多く復元と研究には長いときを要した。僅かに残った船の舵受け部に彫刻家の署名碑文が見つかった。ロドス島(エーゲ海南部)の3人の彫刻家:アタノドロス、ハゲサンドロス、ポリュドロスである。そして、驚くべきことに!!彼ら3人は日本の高等学校世界史の教科書にも登場するヘレニズム美術のシンボル的作品『ラオコーン群像』の作者たちでもあった。


スキュラ群像: スキュラは海に棲む怪物 上半身は女性だが、腰のところから犬が生えだしており、船が通りかかるとこの犬が船員たちを喰らうのだという。海の中から身体を現したスキュラの犬たちがオデュッセウスの船に襲いかかり、既に6人が海の中に引きずり込まれ、最後の一頭が船尾の舵取りに向かって飛びかかっている。彼の頭は既にスキュラの巨大な手で鷲掴みにされており、もはや逃げる術はない。ローマ人はオデュッセウスの船の危機的状況を肴に宴会を楽しんでいたようだ。



肖像彫刻

前1世紀にはブロンズや大理石を素材にした肖像彫刻が多数つくられ、私邸内だけでなく公共の場にも置かれるようになった。ギリシア・ヘレニズム美術では肖像彫刻は基本的に全身像、だったのがローマ人は頭部だけに関心を向け、胸像形式を発展させた。ギリシア人の肖像は青年の運動競技者の像から発しているが、ローマ人は威厳ある老人、皺だらけの老人の顔を再現した肖像に敬意と愛情を感じていた。

Ⅰ『ティヴォリの将軍像』・・深いしわのあるリアルな頭部と鍛え抜かれた理想的な上半身の組み合わせは統一感を欠くが、年齢を重視する真実主義的な顔貌と理想主義的な裸体の組み合わせは当時の流行りだったようだ。

Ⅱ『トガ姿のアウグストゥス』・・皇帝アウグストゥスはローマ市民の正装トガをまとい、貴族の靴を履き、あくまでも市民の一人として、ローマの古き伝統を守る敬虔な人物として表現されている。当時50歳を超えていたはずだが若者のような顔貌をしており、この点については従来のローマの肖像とは異なり、ギリシアの理想主義的なものに近い。

Ⅲ『プリマ・ポルタのアウグストゥス』・・ローマ郊外のプリマ・ポルタにあるアウグストゥスの妻の別荘で出土した。ここでは鎧をつけた軍司令官として表され、顔立ちは『トガ姿の・・』と同じだが、髪型には形式化が見られ顔は滑らかで理想化されている。右足のわきにイルカに乗ったクピドが彫られていて彼はローマ市民の一人としてではなく神に連なる特別な存在として表現されている。

皇帝肖像は帝国全土で建立された。特に初代皇帝アウグストゥスの肖像は、若々しい理想的な姿の『プリマ・ポルタのアウグストゥス』の型が、帝国全土に設置された。(現在、200以上出土。古代には2万~5万は建立されていた、と考えられている。) ローマで作られた肖像原型の石膏コピーが帝国各地の彫刻工房に運ばれ、膨大な数の皇帝肖像が建立された。

旅行者が旅先の地方都市で出会うことも珍しくはない。


歴史浮彫

歴史的なできごとを美術で表現するのは古代においては一般的で古代エジプトやメソポタミアでも多くの例がみられる。しかし、現実の戦争を描いた浮彫でローマの歴史浮彫ほど、細かく記録した美術は他にはない。皇帝の事績を石に刻んで公の場に永久に留める、という目的で戦闘場面だけでなく凱旋式の様子も浮彫に表した。ギリシアでは戦争を神話に置き換えて表現することが多かったのに対し、ローマでは現実の戦争を直接的に描いた。神殿や公的モニュメントにみられる歴史浮彫は肖像彫刻とならぶ2大ジャンルとなった。

トラヤヌス記念柱(ローマ:トラヤヌス広場)・・約30mの円柱 表面にはらせん状に全長約200mに及ぶ浮彫が彫られている。トラヤヌス帝がドナウ川流域を征服したダキア戦争の経緯が下から上へ絵巻物のように表現されている。進軍、戦闘、敵の敗走といった戦争の場面のほかに要塞・橋・道路の建設といったローマ工兵たちの土木作業も含まれている。皇帝は全体で60回ほど登場、兵士たちへの訓令、会議、捕虜との接見の場面にみられ、皇帝が常に兵士たちとともにあったこととともに、正義と慈悲といった皇帝の徳を表している。円柱の設計者、下図を描いた芸術家、彫刻家は不明。制作者たちは皇帝の姿を他の人物と同じような向きや大きさで表しながらも、皇帝を画面の手前に高浮彫に彫ることによって目立たせている。兵士たちの戦闘場面の臨場感は驚くほどで人物は幾重にも重なっている。

マルクス・アウレリウス記念柱(ローマ:コロンナ広場)・・円柱の高さは約30mでトラヤヌス記念柱とほぼ同じだが、下の基壇は10mでトラヤヌスの倍近い高さがある。浮彫は深く彫られているため遠くからでもよりはっきりと個々の像を判別できる。皇帝はしばしば正面向きで表され、別格の存在感がある。


ロマネスク彫刻 10世紀後半-12世紀


「扉口」周辺のレリーフ、ブロンズ製や木製の入口、扉中央の柱や両端の側柱、扉の上の半月形の壁面「タンパン」などに、聖書の物語・聖人や預言者のレリーフが施されている。 タンパンの中央には特に重要な像(キリスト等)が位置づけられ、全体が一連の聖書の物語になっていて、当時文盲だった大半の大衆に教義を理解させる役割を担っていた。 彫刻はあくまでも建築の一部で、柱頭・ファサード・説教壇などに組み込まれているが個々の作品は非常に素朴で表情豊かな雰囲気を醸し出している。イタリア・ロマネスクの代表的彫刻家にはモデナ大聖堂のファサードに「創世記」を浮き彫りにしたヴィリジェルモ、パルマ大聖堂「十字架降下」・柱頭「月のサイクル:9月」・洗礼堂「サムソンとデリラ」を制作したアンテラミがいる。数は少ないが建築から独立した丸彫りの彫刻も発展する。シチリアのモンレアーレ大聖堂のブロンズ扉にも代表的なロマネスク彫刻が見られる。


ゴシック彫刻    13-14世紀


ゴシックの時代は彫刻が建築から自立し、芸術の1つのジャンルになっただけでなく、一挙に主役に躍り出て来た。聖堂外部の彫刻がロマネスク時代よりもいっそう発展 聖堂の大規模化に応じて扉口の高さや奥行が飛躍的に増大 列柱廊や鐘楼、ニッチ(壁面のくぼみ)など彫刻が置かれる場所も増加した。 彫刻の様式はしだいに自然主義的な人間らしい息吹を感じさせるものへと展開、片方の足に重心をかける動的なポーズで運動感を示し首をかしげ微笑むような顔貌を持ったより人間らしい様式が見られる。完全に聖堂の部材とは独立した自立的な丸彫り彫刻が完成。イタリアでは彫刻においても建築と同じく、独自の様相を示している。ゴシック彫刻は13世紀のピサから本格的に始まったとも言われ、ローマ時代の石棺彫刻の影響を受けてキリスト教の図像が数多くつくられるようになった。

その先駆者は13世紀のニコラ・ピサーノ(1215?-80?)と、その子ジョバンニ(1245?-1317?)である。ニコラは南イタリアの出身であるが、この地方は神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世によって古代彫刻の復興が早くから促進され、同時にゴシック様式の流入もみられた。ニコラの代表作はピサ洗礼堂の説教壇で、その古代彫刻の写実性が取り入れられている。シエナ大聖堂説教壇、ペルージャのフォンターナ・マッジョーレ、も重要な作品である。ジョバンニの代表作はピストイアのサン・タンドレア聖堂の説教壇である。豊かで甘美な表現性と激しい感情表現を実現した。ピサーノ父子と同時代の彫刻家たちにはロレンツォ・マイターニ(1275?-1330):オルヴィエート大聖堂ファサード、ニーノ・ピサーノ(1310?-68):ピサ、サン・マッテオ国立美術館『授乳の聖母』らがいる。浮彫は限りなく丸彫りに近づくようになり、造られる人物たちはいずれも細身の長身で彫りが深く、足下は「八の字」形で古代ローマ時代のカタコンベの伝統を踏まえている。ゴシック美術はイタリアルネサンス美術の前触れとなり、それを準備することになる。


ルネサンス彫刻のはじまり


1400年頃、ミラノ大公はイタリア全土を支配下に入れようとしたが、フィレンツェが唯一、抵抗していた。この頃、ある人文主義者が「フィレンツェはペルシア戦争当時のアテーナイと同様、暴虐に対する自由の擁護者である」と声明を出し、市民に大きな反響を呼び起こした。1398年、ミラノ軍と休戦状態に入ると、つかの間の平和ではあったが、中断していた都市整備計画が再開された。フィレンツェの芸術活動は洗礼堂扉の制作から始まった、つまり彫刻家は建築家や画家よりも早く多くの機会に恵まれることになった。この一環として1401年フィレンツェ洗礼堂の第二門扉のためのコンクールが行われた(主催者は大商人の同業組合)。コンクールの課題は『イサクの犠牲』(旧約聖書・創世記22章)で四葉形の枠に表現することになった。参加者は2名説と七名説があるが、

どちらの説をとってもギベルティ(1378-1455)とブルネレスキ(1377-1446)は確実に参加し、審査員は34人いた。2人の作品はフィレンツェ:バルジェッロ国立美術館でみることができる。  ※イサクの犠牲:アブラハムの信仰を試すため、神は、1人息子イサクを犠牲に捧げるよう命じる。苦悩の末、アブラハムはイサクを殺そうと剣を抜いたその時、天使が現れ「イサクを放しなさい、あなたの神を敬う心はわかった。あなたは、大事な息子さえ私に捧げようとした」とアブラハムを止め、代わりに牡羊を生贄にさせた。


ギベルティ作品

表面が左上から右下に斜めに区切られている。左下:アブラハムの従者2人がロバを連れて岩山の下で待っている。右上:アブラハムが短剣で息子に向けているが、イサクは戸惑いの表情をみせている。雲間に現れた天使は右手で岩山の羊を指し示し、息子の代わりにその羊を捧げるよう伝えている。金細工師でもあったギベルティの完璧な技巧によって、青銅浮き彫りの表面な絹のような輝きを放ち、少年イサクの裸体には古代彫刻への賛美が伺える、と評される。右上の天使は見る者に向かって前進してくるような感じを与え、古代彫刻以来初めて、浮き彫りの背景が平面ではなく広がりをもった空間となった。


ブルネレスキ作品

ロバの背に沿った水平な線によって上下に分けられる。下の2人の従者は犠牲の場面に無関心で1人は座って自分の足の裏を眺め(古代ローマ彫刻《刺を抜く少年:カピトリーニ美術館》が意識されている)、もう1人は小川の水を壺に汲んでいてロバも同じ水源の水を飲んでいる。上の部分ではアブラハムがすでにイサクの喉に短剣を刺しはじめており、イサクの顔は恐怖と苦痛で歪んでいる。左上に現れた天使は瞬間にアブラハムの手をつかみ、犠牲の身代わりとなる牡羊を指し示している。アブラハムははっとした目で神の使いを見つめている。ギベルティの作品に比べ、写実的で緊迫感がある。


34人の審査員(画家、彫刻家、羅紗製造者組合代表)は2人の作品を同順位で一位とし、共同で青銅扉を制作するよう依頼した。しかし、作風が大変異なることを理由にブルネレスキが拒絶、ギベルティが単独で制作することになった(1403-24)。※ブルネレスキの作品が採用されなかった理由として、溶接鋳造に手間がかかり経費がかさむから、とも言われる。2人の作品の共通点としては古代の彫刻をモデルにした、という点が指摘されており、自らの作品への引用は古代彫刻への敬意のあらわれであって、この古代への関心は、イタリア語のリナシタ(再生)の概念となり、ルネサンス(フランス人ミシュレが翻訳)の由来へとつながっていく。※ギベルティはこの後1435年頃、フィレンツェ サン・ジョヴァンニ洗礼堂の扉「天国の門」を制作する 青銅に鍍金 高さ79.4㎝ ブルネレスキによって発見された線遠近法を取り入れ、空間的奥行のある「絵画的な浮彫り」を完成させた。


ドナテッロ1386-1466⇒ギベルティの下で修業しながらブロンズ浮彫の技術(ブロンズ鋳造の準備としての粘土の塑像)を、大理石彫刻はナンニ・ディ・バンコから学んだ。ブルネレスキとともにローマに赴きリアリズムを学びとった。彫刻を建築から切りはなし、丸彫り彫刻として復活させ、ミケランジェロが登場するまで、15世紀最大の彫刻家となった。古典古代と同様に人体の姿勢を追及する本格的なルネサンス彫刻を生み出した。

  • 《聖ゲオルギウス》1415-17:フィレンツェ オル・サン・ミケーレ礼拝堂(国立美術館に収蔵:現地には青銅の複製が置かれている) 壁龕を飾る 自力で立つ大理石彫像 2.08m人間の身体を関節をもつ運動可能な一つの構造体として扱い、重心を前に踏み出した足、今にも戦いに臨もう(もとは、右手に武器を持っていた)としているように見え、近づく敵に備えて地平線を凝視するかのような眼は英気に満ちている。ヴァザーリの言「頭部に若々しい美しさ、勇気と戦闘における勇猛さ、そして恐ろしいほどの生命感がみなぎり、今にも動き出しそうな動勢が感じられる」
  • 《龍を退治する聖ゲオルギウス》 壁龕を支える基壇(バルジェッロ国立美術館) 聖ゲオルギウスの乗る馬は躍動感にあふれ、右端の列柱廊からその奥の風景が遠近法・極薄浮彫で表現されている。

  •  《預言者(ズッコーネ:かぼちゃ頭)》1423-25 フィレンツェ大聖堂鐘楼(大聖堂美術館) 1.96m ズッコーネというあだ名をつけられた像はドナテッロの写実主義が最もよく表れた例として名高い 古代彫刻に見られるローマ貴族を想起させ、美男子とは言い難いが品のある魅惑的な頭部を持っている。ドナテッロ自身、自分の話を強調するときに「ズッコーネにかけても」と言ったとされ、この作品に精魂を込めた様が伺われる。
  • 《ダヴィデ像》1440:(バルジェッロ国立美術館) 古代以来初めての等身大の独立裸像 コジモ・デ・メディチによって発注された可能性が指摘されている ミラノの専制君主ヴィスコンティ家のすすめる戦争に対する平和(ダヴィデ踏みつけるゴリアテの兜にはヴィスコンティ家の紋章の蛇が刻まれている。ダヴィデの花輪の帽子は平和を物語る。)という政治的な寓意が伺える。メディチ家邸館の中庭に置かれた。モデルは競技者のような成熟した青年ではなく、思春期の少年で骨格は隆起した筋肉に覆われていない。
  • 《ガッタメラータ騎馬像》1445-50:青銅 3.1×3.96m パドヴァ サント広場 死去して間もないヴェネツィアの将軍の騎馬像制作のためにパドヴァに招かれた 忠誠をもって奉仕した人物を理想と現実を統合して創造した。頭部は力強く、高貴な表情をたたえ、ローマ風である。将軍の甲冑も古代風で、巨大な馬は重装備の人間を乗せるにふさわしく重々しく威厳がある。
  • 主要作品 《キリストの磔刑》木彫《聖ルイ》青銅:サンタ・クローチェ聖堂 《洗礼者ヨハネ》シエナ大聖堂 《説教壇浮彫》サン・ロレンツォ聖堂 カントリア(唱歌壇):フィレンツェ大聖堂付属美術館  《ユディットとホロフェルネス》フィレンツェ:ヴェッキオ宮殿 《マグダラのマリア》フィレンツェ:大聖堂付属美術館 《改悛する息子の奇跡》パドヴァ:サン・タントニオ聖堂ブロンズ祭壇

ドナテッロの後を継ぐルカ・デッラ・ロッビア1400-82とアンドレア・デル・ヴェロッキオ1435-88

ルカ・デッラ・ロッビア⇒フィレンツェ大聖堂付属美術館 カントリア(唱歌壇)大理石浮彫 ドナテッロ作品の向かいに展示されている 《合唱する天使たち》をはじめとする多くのパネルはルカの作品の特色である甘美さと荘重さが見事に融合している。ルカは人物像の表現にリアリズムを追求しながらも理想化することを好み、奏楽天使たちの優雅さがそれを物語っている。ルカはまた、紺碧と白を基調にしたテラコッタ彫刻の技法を完成させた。これはスペイン:マジョルカ島に由来するマヨリカ陶芸の伝統をつぐ製陶技術で繊細な表現が可能となったことで大いに成功した。ルカの子孫たちはこのテラコッタ制作を産業化し、洗練された作品を多く残した。