ボローニャでのステイホーム中にその家の主人(高校の歴史教師)からいただいた一冊 ”Mussolini e il Fascismo” をもとに、20世紀前半の歴史を振り返ってみます。訳文に少し説明文を加えました。2度と再現されてはならない時代。


イタリア国民を切り刻んでしまったファシズム、この言葉はイタリアから遠く離れた地域や大陸でさえ、暴力を辞さない権威主義的な運動やグループを指すように拡大されて使われています。

近代以来、イタリア語は演劇や音楽の世界の辞書に多くの単語を与えて来ましたが、ファシズムという用語は現代の政治分野で普遍的に広まった唯一のイタリア語です。そして「ファシスト」はあらゆる種類のいじめっ子を対象とした侮辱的な形容詞と同義語になっています。

ファシズムのイタリア国民に何をもたらしたのか、その用語の持つ意味や多様性を確認してから、前掲書の記述に従って、ファシズムの始まり、権力の掌握と行使、その破局とレジスタンス運動について跡付けて行きます。

※説明文の参考図書 世界史史料8.10(歴史学研究会:岩波) 岩波講座:世界歴史20 イタリアの歴史(山川) ファシズム解剖学(桜井書房) イタリア国民国家の形成(日本経済評論社) 教養のイタリア現代史(ミネルヴァ書房) イタリア・パルティザン群像(現代書館) イタリア20世紀史(名大出版会)

 

 


ファシズムあれこれ

起源:「束」を意味するイタリア語ファッシオに由来

     ファッシオは古代ローマ時代、公式行事の際、執政官の前に飾られた小枝の束に包まれた斧(ラテン語ファスケス)に由来 

開始:1919年3月23日(日曜日) ミラノのサンセポルクロ広場 ムッソリーニの戦闘集団「イタリア戦闘ファッシ」の集会に始まる

     この集会における宣言・・・”われわれは社会主義に宣戦布告する。・・・なぜなら社会主義は民族主義に対抗するからだ”

意味:・「イズム(主義)」とはいえ、自由主義・社会主義のように思想家による系統的な作業や議会での議論を通じてつくられたものではない。指導者が慎重に舞台設定された祭典や集会において、劣っていると見なされた人々への支配の正当化などを民衆に訴えることで醸成されてきた。大衆政治の時代の民衆の感情に依拠している点が明白であり、知的な基盤はもっていない。 ・国家主義的独裁政治の思想・手法。資本家と労働者の間に位置する中間層の不満や資本家の危機感を背景に、社会主義勢力・労働運動に対する抑圧、人種論の強調、ナショナリズムの鼓舞、対外的には侵略的政策をとる。(三省堂:用語集)  第一次世界大戦後、イタリアからヨーロッパ各国に広まった新しいタイプの政治運動・体制、1920年代前半のイタリア、1930年代のドイツのナチズムがその例である。(山川出版:用語集)

イメージ:恍惚とした群衆を前にして熱弁をふるう排外主義者の扇動政治家 よく訓練された若い兵士の行進の隊列 排斥された少数者を暴行する色付きシャツを着た武装部隊 理性 

的な賛同ではなく疑問を一切もたない熱狂的な忠誠心を示す敬礼

多様性:イタリアのムッソリーニが作り出した体制からファシズムという用語は生まれた、そしてファシズムの究極の過激化がユダヤ人虐殺という「民族浄化」だった、という捉え方がある。しかし、現実は複雑であってファシズムの定義は容易ではない。例えば、ムッソリーニは政権についてから16年をへるまで反ユダヤ主義を表明することはなかった。彼はユダヤ人の実業家や大地主を支持者にもち、資金的援助を得ていたし、ユダヤ人の友人、愛人もいた。政権奪取時のローマ進軍には、およそ200人のユダヤ人が参加している。イタリアにおけるファシストの敵は南スラブの隣接諸民族(スロヴェニア人)、エティオピア人、リビア人だった。


19世紀末~1920年代


1890年、イタリアの支配階級は他のヨーロッパの貴族と同様の余暇を過ごしていました。

写真:ローマ郊外、田園地帯でのキツネ狩りの場面(写真家ジュゼッペ・プリモリ撮影)

産業革命と絶対主義国家の伝統があるヨーロッパ列強諸国と比べると国民意識は未発達のままでした。大きな原因は識字能力の欠如にあって、統一が達成された1861年、国民の70%以上が読み書きできませんでした。1876年の選挙法改正で納税ではなく読み書き能力が投票の条件になりましたが、市民権の行使には限界があったようです。1890年代、人口3000万人中、投票所に赴いたのは300万人にすぎず、大衆の国家への帰属意識は低いままでした。しかし、その一方で労働の過酷さと貧困生活という耐えがたい困難が人々を結びつけ、彼らの集団意識は高まり始めていたのです。


移民のグループがナポリの港の岸壁でアメリカに向けて出発するのを待ちます。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、数百万人のイタリア人が、よりよい経済状態の海外(特にアメリカ)に移住しなければならなかった。農村では慢性的な人口過剰が生じ職の当てのない者は数百万人に上った。特に1887年の農業危機のあと、彼らは海を渡って南北アメリカに向かった。そのうち3分の2が向かったアメリカ合衆国は約束の地の象徴となっていった。

ジョリッティ時代 20世紀初頭 ベルエポックと称される:男子普通選挙導入 民主化進展と経済成長で 

  明るい時代と言われたが・・・社会は危機をはらんでいた 

  1. 製造業における近代化は着実に進んでいた。鉄道輸送は国家が支援して経済発展を支えた。機械工業では裕福な地主ジョヴァンニ・アニェッリが1899年、トリノ・イタリア自動車工場(Fabbrica italiana automobili Torino⇒1906・フィアットの呼称)を設立、イタリア産業の主柱の一つが誕生した。工業成長率は目覚ましかったが、発展が及んだ地域はミラノ・トリノ・ジェノヴァからなる三角地帯に限定され南北格差はひろがる一方だった。
  2. 1908年、レッジョ・カラーブリアとメッシーナの大地震によって死者15万人という壊滅的な災害が発生、その復旧のための大規模支援が行われたが格差を埋めることはできなかった。
  3.  1911・3月 イタリア統一150周年記念としてローマ中心にヴィットリオ・エマヌエーレⅡ記念堂の建設が始まった。祝賀ムードのなかで抗議デモや反対集会が組織された。「豊かなイタリアと貧しいイタリア、北部と南部、農村部と都市部という二つの祖国がある限り、一つの祖国とは言えない。」・・
  4.  トルコが領有するアフリカ北岸の獲得をめざしてリビア(イタリア-トルコ)戦争1911-12を行った。沃土でもなく容易に植民できる社会環境も経済環境もなかった。(写真:リビア戦争)



第一次世界大戦 1914-18


・1914・6・28 サライェヴォ事件 この後、4年以上もヨーロッパを焼き尽くす大火災の発火点。列強は工業と技術のせいで前

 例のないほどの破壊的な戦いを消耗するまで続けることになった。・・・自己破壊的な連鎖反応がすべてを巻き込んでいった。

・イタリアは三国同盟(独墺伊)の束縛はあったが、フランスを含めたヨーロッパのすべての国と友好関係を結んでいた。このイタリ

 ア外交は諸外国から侮蔑を込めて「ワルツのターン」と評された。この戦争においても1年間は中立国として傍観していた。 

・1915・5・23 イタリアはオーストリアに宣戦布告をすることで協商国(英仏露)側にたって参戦した。政府には短期間で終わるは

 ず、オーストリアからの失地回復、工業生産も伸びる・・などの思惑があった。

・リビア戦争後の軍備不足、精鋭部隊はアフリカに派遣されたまま、軍需生産の乏しさのなか、不可能な戦争だった。

・開戦時150万人の兵士数はその後増加して570万人に達した。戦争の最初の冬1915-16までに40万人が死者・捕虜・行方不明者と 

  して姿を消した。2年後、死者数は80万人になった。

 ・国王を初めとする将校たちはこの戦争が不穏なプロレタリア大衆に規律を徹底させるための絶好の機会と考えていた。山岳戦争の装 

  備を持たないまま兵士たちは塹壕に投げ込まれた。自己毀損をする兵士、脱走兵の数は英仏軍と比較して、とてつもなく多かった。

 ・政府は敵軍の捕虜となった多数の兵士(60万人以上)には自発的に捕虜の道を選んだのではないかという嫌疑をかけ、捕虜に対する公的

  義務を妨害し、収容所において10万人以上のイタリア人が飢餓で死亡した。



ファシズム運動の始まり 1919年3月


  • 1914年8月4日 第2インターナショナル崩壊 ヨーロッパの指導的な社会主義政党:ドイツ社会民主党が政府支持を決定、英仏の社会主義者たちも自国の参戦を支持した
  • 1914年10月18日 イタリア社会党機関紙「アヴァンティ」で編集長ムッソリーニは「絶対中立から能動的中立へ」の見出しでオーストリア・ドイツに対するイタリアの参戦支持を表明した↔2ヵ月前まで『戦争がヨーロッパ全体を炎上させるような事態になったとしても・・局外にとどまるべきだ。』と戦争反対の声明を出していた。  20日 編集長職を辞任 ※ムッソリーニ変節の背景としては第2インター崩壊、西部戦線(マルヌ河の戦い)でのドイツ側の苦戦、ドイツ軍が中立国ベルギに   侵入したことにイタリア世論が同情し「未回収のイタリア」問題を抱えるオーストリアに対する憎悪が再燃したこと・・などが考えられる
  • 1914年11月15日 ムッソリーニ独自の日刊紙「イル・ポーポロ・ディターリア(イタリア人民)」創刊 資金はフランス政府が出した(通説) 数日後、社会党を除名される
  • 1915年4月26日 ロンドン秘密協定調印 英仏側に立って参戦、戦勝ののちには《トレンティーノ・トリエステ・イストリア》など多くの領土が約束された 対ドイツ宣戦は1916・8・28
  • 1915年5月24日 オーストリアに対して宣戦 ムッソリーニ:9月狙撃兵連隊に加わる イゾンツォ川上流山岳地帯 1916年3月 伍長に昇進 1917年2月 演習中の事故で重傷を負う運ばれた野戦病院でシャボレッタ 国王エマヌエーレ3世と会った 王は小柄(153㎝)だったので「短いサーベル(シャボレッタ)」というあだ名で呼ばれていた
  • 1917年10月24日 カポレット(イゾンツォ川右岸の町)の敗北 オーストリア=ドイツ軍による攻勢ー毒ガスと火炎放射器ーイタリア軍は陣地を放棄 翌25日政府は総辞職 損害:死傷者4万捕虜28万 兵士の脱走35万
  • 1918年10月25日 イタリア軍は英仏軍の援助を受けながらオーストリア軍の防衛戦を突破し戦局を逆転、11月休戦 
  • 1919年3月23日 ムッソリーニは「イタリア戦闘ファッシ」の結党集会を開催 ~ファシズム運動のはじまり~ミラノ サン・セポルクロ広場 演説「政権の継承権はわれわれにある。われわれこそ国家を戦争へと後押しし、勝利に導いたからだ。」 参加人数は不明 帰還兵士の多くは黒シャツを着て参加 綱領:18歳以上の男女普通選挙権 世襲の称号廃止 議員の年齢制限引き下げ31歳⇒25歳 労働時間1日8時間 フィウメのイタリアへの割譲など 最初の行動:4月15日 ミラノの「アヴァンティ」事務所への放火(死者4人)だった
  • 1919年11月16日 国会議員選挙 ムッソリーニが投票という形で初めてファシズムを試した 立候補したものの、31万5165票のうちの4796票しか獲得できなかった。   社会党156議席(第1党) 自由党129議席(第2党) カトリック人民党101議席